「待ってくれぬか」
ニールセンはぜいぜいと必死に呼吸を繰り返し、金貨を置いていったローブの女を命がけで追いかけた。
その距離わずか五十歩足らず。
運動不足にもほどがある。
しかし、それは仕方のない話だ。
生まれながらの皇帝にして幼き頃より病弱とくればこういう人間に育つ、という見本の完成形なのであるから。
青白い顔に、次から次へと流れ伝う汗の雫。
「まーてーと、いーうーのーが、わーかーらーぬーのーかああっ!」
足は歩を進めるごとにおもりがひとつずつ増やされていくような感覚におちいっていく。
やがてニールセンは膝をがくりとつき、その高貴な身体は地べたへ転がった。
生ける屍と化したニールセンのもとへ、追いかけていた女の方から戻ってきた。
あまり関わりをもちたくなさそうにしていたが、大声を出され挙句に倒れてしまわれては始末におえない。しかも思い切り道の真ん中だ。裏通りとはいえ商人の荷車の行き交いは多い。
ローブの女は急いでニールセンを起き上がらせる手助けをし、荷車の往来に邪魔にならないように路肩へ腰掛けさせた。
「あ……あとで返しに……まいらせるゆえ、す……住まいを……教えてくれぬか」
息も絶え絶えに、ニールセンは必死に訴えた。もう逃がすまいと女のローブの袖をぎゅうと握り締める。
すると女は、事も無げに言ってみせた。
「住まいなどございません。お金のことなら心配なさらずともよろしいのです。お金は使うためにあるのですよ。しょせん、ただのハガネの固まりではありませんか?」
「おぬし、良いことを言うの。ただのハガネの固まりとな」
自分を救ってくれた名も知らぬ通りすがりの女に、ニールセンはひどく共感を覚えた。
当然だ。
この国のすべてのものが手に入る皇帝には、貨幣の価値など無用であるのだから。
しかし皇帝であることを隠せば、屋台の焼き菓子ひとつ手に入れることはできないのだ。
ニールセンは自分の不甲斐なさに、もはやため息しか出てこない。
「ああ、皇后が行ってしまう。これではここまで来た意味がないではないか」
既に表通りの歓声は遠ざかりつつある。もうじき婚礼の儀が行われる宮殿前の広場へ入っていくところだろう。
結局のところ、当初の目的だった「皇后の下見」はまだできていない。裏通りでもたもたしているうちに、あっという間に行列は過ぎてしまった。
一人で城下に出るということは、こんなにも大変なことだったとは――。
ニールセンは額の汗を土のついた手でぬぐった。白く透き通った気高き顔に薄っすらと泥のあとがつく。
その様子を興味深げに見ていたローブの女が、ニールセンの隣にゆっくりとひざまずいた。
「……あれは偽者ですのよ」
女はニールセンの耳元でささやくようにして言った。
「なんと? 偽者とな!? なぜなのじゃ?」
ニールセンは大袈裟に飛び退いてみせた。自分のもとへ輿入れするはずの姫君が「偽者」と言われては、混乱しない方がどうかしている。
「あなたは城の中で仕えている者ですか?」
ニールセンの動揺っぷりが気にかかったのであろう。女は更に尋ねてくる。
「余……わ、私はニールセン様のそばにおるものじゃ」
一応取り繕った……つもりだったのだが、その効果は果たしてあっただろうか。どうも語尾が皇帝モードから抜けきれていない。
「では教えていただけませんか。皇帝はどのようなお方なのです? やはり金の亡者なのですか?」
――はて。皇帝とな?
どうやら自分のことを聞かれているのだと、ニールセンは弱いおツムで何とか理解した。
しかし、その理由が分からずにウウム、と首をひねってみせる。
「モウジャ? あまり難しい言葉を使われても判らぬ。お金のことは大臣に任せてあるゆえ、よう判らんぞ? おぬし、盗賊か?」
女はニールセンの言葉に面食らったようだった。
宮廷御用人のなりをしている青白い顔の若い男に、盗賊呼ばわりされるなど――いや、それより何より服装に合わぬ言葉遣いに、女は疑問を持ったようだ。
すでに疑問は確信に変わっているに違いなかった。女は訝しげにニールセンの顔を見つめてくる。
「……あなたはいったい、ここで何をしておられるのです?」
女の言葉遣いが幾分丁寧になったことに、ニールセンは気付いていなかった。
「皇后の顔を、そばで見たかったのじゃ」
素直にそう告げた。皇帝は、世渡りや駆け引きなどとは無縁の人間である。
その純真爛漫な言葉を、ローブの女は黙ったまま聞いていた。
「まさか偽者を送ってくるとは思わなかったゆえ……しかし、余はその気持ち分かるぞ」
「どうしてですの?」
「このような異国の地に一人で参られるは心細きこと。何をされるか分かったものではないではないか。影武者を仕立てたくなるのも当然であろう?」
そう言って、ニールセンは自虐的なため息をついた。
へこむ。へこまずにはいられない。
知らず知らずのうちに、皇后に対する期待があまりに大きく膨らんでしまっていたのだ。
借金のかたに結婚をする――そんなことをバカ叔父ヴィンレットが言っていた。
そんな境遇の人間が、ニールセンのことを気に入るかどうかなど、重要なことではないのだ。
一人勝手に舞い上がっていた自分自身が恥かしかった。
まさか、向こうも影武者などと。それほどまでに。
はああ。
何度目かのため息をついたときだ。
突然ローブの女が、こらえきれないといったように笑い出した。
「では、どうして陛下はここにおられるのです? ここはあなたにとって異国の地でもない、居城なのでしょう? それなのに影武者を?」
女はまだ笑い続けたままだ。
ニールセンは訳が分からない。なぜこの女が自分のことを笑っているのか。
「余の命を狙うものは大勢おるのだ。…………お、おぬし、いま『陛下』とな!?」
気付くのが遅すぎである。
当のニールセンは自分の素性がばれていたことにあたふたし、目が左右に泳いでいる。
自分が皇帝だと分かれば、供の者もおらぬこの状況で、暗殺の危険度は最大値だ。
ひいいと、声にならない悲鳴をひとしきり上げ、ニールセンは四つん這いになって逃げようとした。
あまりに情けない姿だ。
女はようやく笑うのを止め、顔を覆っていたローブのフードを取った。そして、気品あふれる声を辺りに響かせる。
「まだお分かりになりませんか? ジル・マイシェルと申します、陛下。――初めまして」
なんともはや。
ニールセンは初めて、あのいけ好かぬ叔父ヴィンレットの言い分に納得した。
絶世の美女と誉れ高き――これは納得せざるを得ない。
「おぬし……いや、そなたが!? そなたが、余の皇后とな?」
ニールセンは女の呼称をとっさに変えた。
まさかこれほどまで美しいとは、ニールセンは予想していなかった。
まだ、少女だ。決して幼いわけではなく、しかし成熟した美しさでもない。
――皇帝、完全に心を奪われた。あっけなく、陥落。
もちろん、見目麗しきこともさることながら、その浮世離れした価値観が似ていることが、ニールセンの心を捉えたのだった。
しかし。
持ち前のとことん後ろ向きな性格は、けっして変わることはない。
「……信じられぬぞよ、そんな戯言は。甘い話に取り付くなと、いつもピンガがゆうておる」
口うるさいジイの渋い顔が頭の片隅をよぎっていく。
きっといまごろ、ニールセンが逃げたしたことがバレて、大騒ぎをしているだろう。
――ああ、あとが怖い。
「ピンガ? あの大臣様がそのようなことを? 父上が私を差し出すと申しましたら、条件もろくに聞かずに飛びついたあのお方が? それはそれは……たいした教育係ですこと」
嫌味を言っているのであろうが、それを微塵も感じさせない。
怖いものなしに品格という刃でためらいもなく切り捨てるさまは、まさに痛快だ。
もはやニールセンの心は、ジルと名乗った皇后となるはずの少女に奪われてしまっていた。
「そなたが無理やり連れてこられたような話を、余は今朝聞いたのじゃ。余は、そなたがそんなに嫌がっているとは思っていなかったゆえ……」
「嫌がる……?」
「だから影武者を仕立ててここまで逃げてきたのであろう?」
ニールセンは恐る恐るジルの顔色をうかがうようにして尋ねた。
皇后となる少女が、自分のことをどれだけ受け入れてくれるものなのか――ニールセンは不安で不安でしょうがなかったのだ。
「それは、陛下もご一緒なのではありませんか?」
ジルの声は明るく澄んでいた。無邪気に語りかけてくるところをみると、決して悪い印象ではないのか――ニールセンの心は少しだけ緩んだ。
「余は、別に嫌がってなど……ただ、余は人馴れしておらぬ。いくら勝手に決められたとはいえ、誰でもよいというわけにはいかぬのだ」
そう言ってニールセンは、自分が皇后となる人に何を求めているのかが、ようやく分かった気がした。
そして、それはこの目の前にいるジルという少女が、確実に持っているもの。
「そなたも仕方なく連れてこられたのであれば、……む、無理して余の側におることもないぞ。余の住まいは広いゆえ顔を合わさぬこともできるし、退屈させぬよう欲しいものは何でも与えるし、その、なんだ、ええと……そんな悪いようにはせぬ」
なんとも不器用な愛情表現。しかし、これがいまの皇帝の精一杯なのである。
「――退屈させぬと、今おっしゃられましたね」
ジルは嬉しそうに、首をわずかに傾げて微笑んだ。
ひときわ大きな歓声が、広場の方から湧き上がった。
楽隊の祝祭曲が高らかに演奏され、白い鳥が大空へ羽ばたいていく――。
「は、始まってしまったようであるぞ?」
「では、参りましょうか」
ジルは立ち上がり、もう一度ローブのフードを頭にかぶせた。
そして、透き通るように白い美しい手を、ニールセンの方へとさしのべる。
「参るとな? そなた、いずこへ参られるのじゃ?」
「陛下、ジルを宮殿まで案内してくださいませ」
ニールセンは貧血で再び倒れそうになった。
驚きなのか喜びなのか途惑いなのか――もはや、どれでもあってどれでもない。
ジルの手を借りてようやくまともに立ち上がる。そして、その手をしっかりと握り締めたまま――。
「よいのか」
「ええ」
「本当に本当に、本当によいのか? あとになってやっぱり止めたと言われたら――」
「言ったらどうなるのです?」
「――余はきっと、死ぬ」
若き皇帝ニールセンの言葉に、ジルは優雅な微笑で応えた。
城下のじめじめした路地裏で、なんとも奇妙なプロポーズ。
そしてここに、若く初々しいロイヤルカップルが誕生した。
偽者たちによる婚礼の儀は、今まさにクライマックス。
皇帝微笑 (了)
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