ここは東宮と呼ばれる建物の二階である。
先帝の住まいがあった場所で、現在はほとんど使われていない。
ここならピンガじいの目にもつかないだろう、とロビンは判断したのだ。
「で? どうして僕が絵描きの真似事などしなくちゃいけないんだい、ロビンちゃん」
高貴なたたずまいの若い男が、色とりどりの顔料絵の具と何種類もの絵筆を目の前にし、不思議そうに首を傾げてロビンに尋ねた。
きれいに整えられた茶色の短髪を、気障ったらしく右手でかき上げてみせる。その仕草が社交界の貴婦人たちの心をつかむのに絶大な威力を発しているらしいのだが、ロビンは当然興味がない。
男の名は――そう、皇帝の叔父で有閑貴族のヴィンレット・アイゼンだ。
「千二百人を三日ってことは、一日で四百人でしょう? 一人の絵描きが一日に十枚描けるとして、四十人必要なんですよ? 帝国中から集めればそのくらいの絵描きは集まるでしょうけど、なんせその時間もないんですよ。だから、多少絵心のある素人を総動員してるってわけです」
ロビンはヴィンレットに、ことの次第をすばやく説明した。
ヴィンレットはもちろん絵描きではなく、「多少絵心のある素人」の分類だ。
その血筋の良さは飾りではなく、一通りの教養は幼少より身につけられて育っている。簡単なデッサンならお手のモノだ。
いま東宮の各部屋には、ヴィンレットと同じように画家とにわか絵描きがそれぞれ待機し、城で働く人間を何名かずつ呼び出して、カードに描き出すという、なんとも気の遠くなる作業に没頭させられていた。
普段は人の気配のない東宮に、これほど多くの人間が出入りしていたら、いくらなんでもピンガじいが気付いてしまうのではないか。
あの頑固なじいが、こんなバカな真似を許すはずがない。
しかし、それは仕方のないこと。
何故なら、皇帝はバカなのだから。
いや、バカというより病気だ。
ある意味、一番タチの悪いものかもしれない。
――――皇帝ただいま、『恋の病』をお患い。
ヴィンレットは派手な上着を脱ぎ、ロビンめがけて放ってやった。甘く洗練された上質な香りが辺りに広がる。香水は貴族のたしなみのひとつだ。
そして、おもむろにシャツの袖をまくり始め、作業机の上に用意された絵筆を数本取り、使用するものを選び始める。
そこそこやる気を出しているところを見ると、絵を描くことは嫌いではないらしい。
「一枚あたり、いくら?」
手を休めることなく顔料の入ったビンをいくつか選びながら、ヴィンレットはさしたる興味も無さそうに言った。
ロビンは驚いて、思わず声を上げてしまう。
「アイゼン公! まさかお金取るつもりなんですか?」
「当たり前じゃないか。タダ働きなんてごめんだね」
もちろんヴィンレットはお金が欲しくてそんなことを言っているわけではない。
ニールセンのために無償で働かされる、という大義名分が気にいらないのだ。
平民であれば皇帝陛下のために働けるのは幸せだと思うものだが、皇帝ニールセンに次ぐ地位の持ち主であるヴィンレット相手では、そう簡単にコトは運ばない。
もちろんロビンもそのことは充分承知している。ニールセン同様、このヴィンレットとも付き合いは長いのだ。
あしらい方は慣れたものだ。
「一生使い切れないほどのお金持ちが何言ってるんですか……。ところで、相場はいくらなんです? アイゼン公もカードを作らせたのでしょう?」
「まあね。画家のランクによってまちまちだけど、僕は一枚五十キュールで百枚作らせた」
ロビンはヴィンレットの上着を抱き締めながら、驚きのあまり一歩後ろへ飛び退いた。
「百枚も? 総額にして五千キュールですよね!? 僕の給料の三か月分以上ですよ!?」
ニールセンほど浮世離れをしていないつもりのロビンだったが、こういう時に自分が世情に疎くなってしまっていることに気付かされる。
正直なところ、ロビンの見積もりではカード一枚が二、三十キュール程度だとふんでいたのだ。
少しずつ、暗雲が立ち込めてくる。なんだか嫌な予感がプンプンと……。
冴えない顔のロビンを見て、ヴィンレットの表情は逆に明るくなる。揉め事厄介事の匂いを嗅ぎ取り、気分が高揚しているようだ。さすがは閑人だ。
「宮仕えも大変だねえ、ははは。何なら陛下の影武者なんか辞めてうちへ来るかい? ロビンちゃんはなかなか有能だから今の倍、月に三千キュール出すけど?」
「ぐらり。…………いやいや。そんなことしたら確実に首と胴体が離れちゃいますよ」
一瞬でも揺らいだ心をロビンは恥じた。恥じたというよりも、ニールセンの情けない顔が脳裏に浮かび、自分が皇帝ニールセンと切っても切れない運命共同体であったことを思い出しただけなのだが――。
「そんなの口だけだよ。あいつは癇癪持ちだけど、血生臭いことは嫌いだからね。ま、監獄に入れられて一生出て来れないくらいかな」
さすがは皇帝の叔父。ニールセンの気性を的確に捉えている。
ヴィンレットと会話を交わすうちに、ロビンはふとあることに気が付いた。
それは、最も重要なこと――。
「ということはですよ? 千二百枚で一枚五十キュールだと……」
「六万キュールだね」
ヴィンレットのすばやい計算能力に感心しつつ、その金額の大きさにロビンは思わず卒倒しかけた。素っ頓狂な大声を上げ、手にしていたヴィンレットの上着を床に落としてしまう。
「僕の給料三年分以上ですよ!! どこからそんな大金出せって言うんですか……」
ロビンは頭を抱えウウムと唸った。
なんとしたことか。もはやこれまで。
苦悩するロビン少年をよそに、ヴィンレットは淡々と絵筆を動かしている。
「そんな、ニールセンのやつに払わせればいいじゃないか。ちょっとロビンちゃん、僕の上着ちゃんと掛けといてよ? ……ああ、はみ出た。紙、もう一枚」
失敗した紙をテーブルの端に寄せ、ヴィンレットはロビンに向かって左手を差し出した。
ロビンはため息をついた。
新しい紙をヴィンレットの手の上に載せ、もう一つ深いため息をついてみせた。
「内緒なんですよ、困ったことに」
画家を一人呼んで数枚の絵を描かせる程度なら、消耗品の経費に紛れ込ませることも出来たが、いつの間にやらコトが大きくなりすぎた。もうロビンの手には負えないくらいの金額に膨れ上がっている。
「え、そうなの? ピンガじいさんに言ってないんだ。じゃあ、城の金庫は絶望的ってことかい。それにしても……ジル殿もなかなかやるな。さすがは退屈知らずだ。辛気臭い城の中も活気づいてるじゃないか、ははは」
ロビンはようやく自分が落としたヴィンレットの上着を拾い、来客用の外套置き場にそれを掛けた。その持ち主の軽快な笑いを背に、思わず深いため息がもれる。
もう何度目のため息だろう。ニールセンの相手をするよりも、ヴィンレットの相手のほうがため息の回数が多いのは果たして気のせいだろうか。
「アイゼン公、絶対楽しんでますよね……?」
「あ、分かる? ははは。まあ、ロビンちゃんにならお金いくらでも貸すよ? 無利子無期限無催促、でも恩はしっかりと売らせてもらうけどね」
結局のところ、そうなってしまうのか――ロビンは複雑な思いで、またため息をついた。
三日後――。
皇帝ニールセンはロビンの報告を受け、西宮にいる皇后ジルのもとを訪れた。そして、二人は連れ立って東宮へと出向いた。
顔料の生乾く独特のにおいが辺りに漂っている。
廊下を挟んだ各部屋には、椅子に身を投げ出すようにして眠っている力尽きた絵描きたちの姿が――まさに修羅場明けだ。
そしてもっとやつれたこの少年。
ロビンはこの三日間、まさに不眠不休で働いていた。新宮で皇帝とともに通常の業務もこなし、少しでも空いた時間は東宮へと走り画家たちの要望を聞き、ヴィンレットの相手(これが精神的重労働)をして、出来たカードのチェックと整頓もすべて引き受けていたのだ。
頬はこけ、目の下のクマには哀愁すら漂う。
それもこれも皇帝ニールセンの命令のためだ。
いやきっと、元凶は皇后ジルのほうなのだが……。
先帝時代の執政の間に完成品はすべて揃えられていた。
テーブルに皇帝アリエス家の紋章入りの青いクロスを掛け、その上に百枚ずつ重ねられたカードの山が十二個、きちんと整えて置かれていた。
「ニール様、こちらが皇后様ご所望の「城内勤務者カードセット」となります」
ロビンが仰々しく言った。非公式なものだが一応『皇帝陛下に献上』ということになるため、それなりの対応をするように気を利かせたのだ。
そして、すべての画家プラスにわか絵描きを代表して、あの自称大陸イチの画家が執政の間に姿を現した。
「出来にバラつきはありますが、主要人物は私が責任を持って描かせていただきました。久しぶりに魂が削られるような仕事でした。刺激的で楽しかったですよ」
全身顔料まみれで、ツタのような髪は四方八方に乱れ、その「魂が削られた」という言葉があながち間違いではないことがうかがえる。
ニールセンは揃ったカードを見て満足そうに微笑んだ。
「おお、思うていたよりもたくさんあるではないか。皇后よ、これを如何ようにするつもりじゃ?」
一方のジルは。
いまひとつ盛り上がりに欠ける反応だ。
「そうですわね……同じ物がもう一組あれば『絵合わせ』遊びができますわね。そうしたら陛下、ご一緒にカード遊びをしていただけませんこと?」
ドキドキドキドキ。ニールセン、ときめきの恋の心拍数上昇中――。
ドキドキドキドキ。ロビン、なんだか嫌な予感の心拍数上昇中……。
「『絵合わせ』とな? 余はその遊びを知らぬぞ?」
「教えてさしあげますわ。きっと楽しいですわよ」
「そうか。ではロビン、同じ物をもう一組作らせよ」
やっぱりバカ。やっぱり病気。
この状況を見て尚、もう一組作れなどと平気でのたまえるのは、浮世の人間だけだ。
「無茶言わないでくださいよニール様! じいさんを騙しておくのも限界だっていうのに」
そう。
それにピンガに隠している以上、ヴィンレットへの借金がかさむばかりなのだ。
宿敵の叔父にお金を借りたことを知れば、きっとこの上ない癇癪を起こしてしまうだろうが……。
ジルは長老たちのカードの山を数十枚確認し、ようやくロビンの言葉に納得したようだ。
「ああ、そう言われてみますと、ピンガ大臣様のカードはございませんのね。では、もう一組作る代わり、大臣様のカードを特別な当たりカードとして加えてくださいませんこと? そうすれば『大臣めくり』の遊びができますわ」
ジルは傍らのニールセンを見上げ、にっこりと楽しそうに微笑んだ。
究極の選択を今まさに迫られている。
あと三日間城にこもり、ジイにばれぬようもう千二百枚の絵を描くか、あと一枚ジイをモデルにしたカードを加えるか――。
「どうしたらよいであろう、ロビン?」
ニールセンはオツムの弱さが致命的。すべてを選ぶのは簡単でも、多者択一というのは比較する力が必要なのだ。ニールセンに著しく欠如している能力だ。
しかし、救いを求めた影武者少年には冷たくあしらわれ――。
「知りませんよ、ニール様が決めてください。元はと言えばニール様が自分のカードを皇后様にさしあげたいという我儘から始まったんですからね!?」
ニールセンは、もはやそのことを失念していた。
ロビンはそんな身勝手な皇帝を諌めるため、そしてこの三日間の鬱憤を晴らすために、あえて皇后ジルの前で、ニールセンに対する嫌味を込めて言った。
「カッコいい余の姿をいつでも皇后に見てもらえたなら、余のことを気にいってくれるであろうか? とか、あ、そんなコトは言ってませんでしたっけ。なんせ、とあるお方のお陰で睡眠不足なもので」
ロビンの言葉を聞き、ジルは驚いたように目を瞠った。そして、ニールセンのほうを振り向いて、はにかむように首を傾げてみせた。
「まあ……そうなのですか?」
「な、な、なにを申すかロビン……いや、余はただ、その」
ニールセンの顔は赤くなったり青くなったり白くなったり、もはや失神寸前だ。
そのときである。
絵描きが突然前に進み出た。そして絵筆を縦にし、そのままニールセンとジルの周りを怪しく動き、キタキターっ、と叫んで胸ポケットからカード用の紙を取り出すと、一心不乱に何かを描きつけ始めた。
その鬼気迫る形相には、ニールセンやジルはもちろん、ロビンもただ唖然とするばかり。
しばらくその様子を皇帝、皇后、影武者の三人は見守っていた。
やがて。
「はい、出来ましたよ。これこそ当たりのカードに相応しいでしょう? 俺からのお祝いとして、その分の料金はいただきませんので」
「おお……これは」
「まあ、素適だこと」
そこには、皇帝陛下と皇后陛下の二人並んだ姿が描かれていた。
カードの中の二人は、壮麗な婚礼の儀の華やかな礼装に身を包んでいる。
二人とも影武者を仕立て婚礼の儀をすっぽかしたため、実際にはありえなかった構図だ。
衣装も細部まできちんと再現されている。
ジルはニールセンに寄り添い、カードを二人で見えるようにした。
「本当なら、こうなるはずでしたのにねえ、陛下?」
触れ合う腕と腕に、お互いの温もりを感じる。
ニールセンは小さな子供のようにウン、と頷いた。
どうやらこれで丸く収まるようだ。ジルが満足すれば、ニールセンは本望なのだ。
「では皇后よ、このカードを当たりとしてここに加えてもよいか?」
「加えるだなんてそんな」
ジルはニールセンの顔を見つめ、大きな瞳を瞬かせた。二人並んだカードをしっかりと握り、誰にも取られぬようにしっかりと胸へ押し付けている。
よほど気にいったようだ。ニールセンも満足だ。
もちろん、ロビンも画家もここまで苦労した甲斐があるというものだ。
しかし忘れてはならない。皇后ジルは「天然もの」の浮世の人であることを――。
「これ一枚で充分ですわ。あとのものはもう結構です。欲しい方に差し上げてくださいな」
ジルがなんとも爽やかな笑顔を見せている。
ニールセンもつられてはにかむように微笑んだ。
「そうか。ではロビン、皇后の言うとおりにせよ」
「…………え? ええっ!?」
ロビンは初めて、一国の財政を傾けたとされる美しき少女ジルの恐ろしさを見せつけられたのだった……。
――ああ、六万キュール。
百キュール金貨六百枚が羽をつけて飛び去っていく幻覚と、ヴィンレットの満足げな顔が、ロビンの頭の中を錯綜していた。
皇帝苦笑 (了)
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