執政室の空気が淀んでいる。
皇帝とその叔父に挟まれるようにして、ロビン少年はいたたまれぬ気持ちで一杯だった。
ヴィンレットに脅されたとはいえ、ニールセンの天敵をこの執政室にまで入れてしまった――何事もなく済めばよいが、期待は薄い。
お手柔らかに、今のロビンにはそう願うほかはない。
切り出したのは叔父・ヴィンレットのほうだった。胸ポケットから、一通の封筒のようなものを取り出した。
「今日はこれを陛下に直接お渡ししようと思いまして」
ヴィンレットは気障すぎるほどの優雅な立ち居振舞いで、颯爽とロビン少年の元へと近づいていき、それを渡した。
芳しき上質の香りがする。貴婦人用の香水とは違い、爽やかさの中に野生的な深みも感じられ、それでいて甘く豊かな空気をまとわせている。
ニールセンがヴィンレットを苦手とする理由に、この香水も一因としてあった。それはあくまでたくさんある理由の「たった一つ」に過ぎなかったりするのだが……。
ニールセンは叔父の行動を嫌悪感丸出しの顔で睨みつけ、上着の袖をぶんぶん振り回して周囲の空気を寄せ付けぬよう押し返し、やがて疲れて息が上がってしまうと、プイとワザとらしく顔をそむけた。
「書付けならわざわざここに来ずとも、ジイに渡せばよいではないか。余はおぬしの顔など見とうないわ」
確かに、皇帝に直接文書を手渡すことなど、普通は出来ないことになっている。
皇帝の執務内容や行動予定は、すべてピンガじいをはじめとする大臣連中が決めてしまうため、ニールセンが文書類を受け取る必要はなかった。
それは、いくら地位の高いヴィンレットでも同じこと。例外は認められていないはずだ。
「ははは、この僕の顔を見たくないとおっしゃるのは、陛下だけですよ? どこへ行ったって引っ張りだこなんですけどねえ」
「であれば、早々に立ち去って、勝手にどこぞで引っ張られておればよいではないか」
ニールセンのそんな非友好的な態度も、ヴィンレットには何の効果もないようだ。
逆にそれを楽しむかのように、余裕たっぷりに微笑んでみせる。
その爽やかな笑顔の下には一体何が隠されているやら――。
ロビンは軽くため息をつきながら手渡された封筒を開封し、中から派手な細工を施した招待カードを取り出した。
招待状ひとつにも随分とお金をかけているようだ。しかしヴィンレットにとってはなんのこれしき、ほんの端金に過ぎないだろう。
この帝国において、皇帝に次ぐ財力の持ち主であり、それを自分の裁量で自由に使えるのだから、ヴィンレットは皇帝のニールセンよりも、ずっと羽振りがいい。
ある意味、帝国イチの大富豪なのだ。
「毎月恒例の、我がアイゼン公爵家主催の舞踏会のご案内ですよ」
ヴィンレットは招待状の内容を確認しているロビンに補足するように言った。
きれいに整えられた茶色の短髪を、乱れてもいないのにかきあげる仕草がまた、嫌味ながらもさまになる。
「……恒例とな? 余はこれまでそのような誘いを受けたことはなかったぞ」
ニールセンは、珍しく鋭いところをついた。ようやく、そむけていた顔を嫌々ヴィンレットに向けてやる。
アイゼン公爵家は、最も皇帝アリエス家に近い血筋である。しかも皇帝アリエス家は本流で、もちろん立場は上だ。
夜会を催すのに形だけでも本流を招待をしないというのはおかしい、という事くらいニールセンにだって解ること。
突き刺すようなニールセンの視線も、ヴィンレットは軽くかわし、たいした事ではないといったように肩をすくめてみせた。
「そんなの遠慮してたに決まってるでしょうに。陛下は人の大勢集まる場所が苦手でしょうから」
ヴィンレットの言うとおりだった。
確かに、人嫌いで病弱なニールセンは、たとえ夜会の招待状が届いたとしても、決して人前に姿を現す事はしなかっただろう。
気を使って遠慮した、ということを強調されてしまえば、実際そうでなくとも、それ以上ヴィンレットを責めることは出来ない。
「よく心得てるではないか。であれば、何ゆえかようなものを持ってまいったのじゃ?」
「ジル殿は夜会がお好きとお見受けしましたものでね。ここはいろいろと退屈でしょうに。社交界の華ですからね、ジル殿は」
「皇后が……? 夜会とな。ううむ……」
近隣諸国の社交界に通じているヴィンレットは、城にこもりっきりのニールセンよりも遥かに遊興・催事に長けていた。
「舞踏の腕前も、そのへんの踊り子など足元にも及ばないほどなんですよ?」
「そう……であるのか? 皇后が――」
ジルが華麗に踊る姿を、ニールセンは頭の中で思い描いた。
華やかな衣装を身にまとい、美しき調べに寄り添い舞う皇后ジルの姿は、ニールセンの熱く高鳴る胸をいっそうかき鳴らす。
一目、見たい。ぜひとも。
妄想を膨らませ、ニールセンは抑えきれない衝動に駆られていた。
「たまには陛下もどうですか? ああ、今回は仮装舞踏形式ですから、顔がばれる心配もありませんしね。ジル殿はきっと華やかな夜会を望まれると思いますよ。――では、よい返事を期待しております」
そう言って、ヴィンレットは用件をすべて伝えると「長居は無用」と踵を返し、背中を向けたまま軽く手を挙げ、颯爽と執政室を出て行ったのだった……。
状況を把握する前に、取り残されてしまったニールセンとロビンは、もはや執務をするどころではなくなっていた。
ヴィンレットの突然の誘いに、ニールセンは途惑いを隠せない。やはり、疑い深い性格はいまだ健在――。
相手がヴィンレットでは尚のこと、疑うなというほうが困難である。
「あんな上手いことを言いおって、つまりは余の皇后に近づくための口実であろう? その手には乗らぬわ。ロビン、その書付けを、これい」
「これですか? どうぞ」
「こんなもの」
ニールセンの高貴な顔立ちが、まるで汚らわしいものと対峙したかのように引きつった。
「こうして」
びりびり。びりびり。
「こうして」
ぐしゃぐしゃ。
「こうしてくれるわーっ!!」
げしげし。
ずりずり。
「わーっ!! ニール様!! 止めてくださいよ!!」
ロビンは急いでニールセンの足元へとひざまずき、ちぎれ、握り潰され、踏みつけられ、床に擦り付けられた、見るも無残な公爵の招待状を拾い集めた。
いくら皇帝でも、公式な文書をないがしろにすることは許されない。上手く修復しないと、じいに何を言われるか解ったものではない。
ロビンはため息をつきながら、またひとつ余計な仕事が増えたと嘆いてみせた。
すべての紙片を拾い集めたロビンは、部屋の真ん中で立ち尽くすニールセンに問いかけた。
「もし……もしもですよ? ジル様が行きたいとおっしゃられたらどうするんですか。介添えは必要ですよ?」
ここからが、ロビンの腕の見せ所だ。
心の内を悟られぬよう、努めて冷静さを保ち、ニールセンの顔色をうかがう。
「皇后が行きたいと申すのであれば、余は構いだてせぬわ。介添えが必要とあらば、おぬしがその役を務めればよい。何のための影武者ぞ」
「……はあ。ニール様はそれでいいんですか?」
いけ好かぬ叔父の主催する舞踏会に皇后ジルを行かせるなど――ニールセンがそれを容認する発言をしているのは本心なのか、ロビンは半信半疑だった。
しかし、これで予想以上に簡単に片がついた。ヴィンレットへの『恩義』を、これで半分果たしたも同然だ。
ニールセンは何を思ったか、突然部屋の中をぐるぐると歩き始めた。
壁際まで行くと立ち止まり、方向を変えてまた歩く。そして立ち止まるたびに、一言ずつ吐き出していく。
「何が舞踏会ぞ。そのような騒々しいもの、余は好まぬ」
皇帝、心の呟き。
「そんな手を取り合って踊るなど。何が楽しいのか、余には解らぬ」
再び皇帝、魂の叫び。
「余は踊らぬ。…………舞踏など舞えぬ。であるから皇后とは一緒に行かぬ。行けぬのじゃ」
三度皇帝、切なる嘆き。
落ち着きなく部屋を歩き回る皇帝陛下の複雑な心中を察して、ロビンはなだめるように言った。
「……ニール様の気持ちは充分解りましたって。では僕がジル様のお供をしますよ」
しかし。
これですべて丸く収まる――わけが、あるはずもなく。
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