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皇帝失笑(3)  
 その日の午後――。
 毎日の日課となっているお茶の時間になっても、ニールセンは元老院の広間に姿を現さなかった。
 体調不良を理由に欠席する事はしばしばあったが、今日は違う。
 つい先ほどまで、皇帝御所の新宮回廊をふらふらと歩き回っているニールセンの姿が、多くの長老たちに目撃されていた。
「陛下のお姿が見当たらんが……」
 長老の一人が、皇帝の玉座の脇にポツンとたたずむロビン少年に尋ねた。
「きっとジル様のところですよ。放っておきましょう。どのみち、ニール様はこの城内から抜け出せるほどの器じゃないですから」
 別にたいした事ではない、といった風にロビンは肩をすくめてみせた。この程度のことで動揺していては、皇帝の付き人など決して務まらない。
 するとそれを聞いて、別の長老が口を挟んでくる。
「皇后様のところじゃと? いやいや、それはありえん。今しがた、アイゼン公爵様がジル様をお訪ねになっているのをお見かけもうしたが……」
 皇帝ニールセンと叔父ヴィンレットの仲がよろしくないのは、城内の人間なら誰でも知っている『お約束』的事項だ。
 『ヴィンレットあるところにニールセンなし』、というのが、城内での決まり文句だ。

 それにしても……。

 いやはや……。

 ……まったく。

 ホント、油断も隙もない男(たち)だ――ロビンは額にイヤな汗をかいていた。



 その頃――。

 ニールセンは城内の皇族専用図書室にいた。
 皇族専用というだけあり、だだっ広い空間に稀本・稀書が所狭しと並んでいる。

 本来ここを利用できるのは皇帝であるニールセン、皇后のジルだけだ。
 しかし、帝国内の学者であれば、皇帝の許可や元老院の推薦状があれば、閲覧許可書が発行される仕組みになっている。その数は決して多くはないが。

 その証拠に、図書室内は閑散としていた。
 気難しそうな白髪の老爺が、磨き上げられたジナ材のカウンターの中で、淡々と司書業務をこなしている。
 ニールセンは辺りを見回し人がいないのを確認すると、すばやくカウンターに歩み寄った。
 そして、司書の老爺に向かっておもむろに言う。
「ブトウに関する書物をここへ集めてくれぬか」
 突然人の声がしたので、老司書は驚いたらしい。びくりと反応すると、蔵書録を書き付ける手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
 そして、目の前にたたずむ青年の姿に、何度も何度も瞬きをしてみせる。
 利用者の地位としては、いてもおかしくない人物だが、――ニールセンがこの皇族専用図書室を利用する事は、今だかつてなかったからだ。
「……ご興味がおありで? 陛下」
 ニールセンはしゃがれ声を上げる老司書の耳元に、透き通るように美しい高貴な顔を近づけた。そして、恐ろしく弱々しい小さな声で、老司書に告げる。

「余が、ここに、来たことは、誰にも、言うては、ならぬ。他言、無用ぞ?」

 ひと言ひと言区切るような、ささやくようなニールセンの言葉に、老司書はあっさりと返した。
「なにぶんここは専門書が揃っておりますので、陛下がご所望されるようなものでしたら、表の国立図書館の方までお出向かれなされませ。なんでしたらロビン殿に私から……」
 するとニールセンは。
 今度はだだっ広い図書室一杯に響き渡るような大声で、老司書の耳元でわめき散らした。

「ダメじゃダメじゃダメじゃ! 誰にも知られてはならぬと言うておるではないかーっ! 幾度同じことを申せばよいのだっ!?」

 ぜいぜいと息を切らすほど興奮した皇帝のすぐ側では――耳の穴に指をつっこんで、恨めしそうな渋面を見せる老司書の姿。
 普通に喋れよ! と言わんばかりである。
 もちろん、皇帝相手に老司書の内なる声が届くはずはない。
「……であれば、手始めにこちらなど」


 革張りのていねいな装丁を施した一冊の本を手にし、ニールセンは早々に新宮の皇帝私室にこもった。
 無造作にページを開くと――古い紙の香りがあたりに立ち込める。
「なんと……文字が紙の上からあふれるようじゃな。読むほうも読むほうであるが、書くほうも正気とは思えぬわ」
 オツムの弱いニールセンのことだ。
 その最初に見開いたページをざっと見ただけで、その文字量に頭がクラクラし、古紙の匂いに酔い、そのまま寝所に倒れこみそうになった。

 しかし。

 ニールセンはどうしても諦めきれなかった。
 自分の娶った若く美しい皇后の、夜会の相手も務まらぬようでは――いずれ愛想を尽かされるかもしれない。
 そんな妄想がニールセンを苦しめていた。
 いや、妄想とは言い切れない。
 現に、ニールセンの周囲には『ヴィンレット』という危険分子が存在しているのだから。
 社交的で遊び上手で、人気も地位も金もあるヴィンレット。
 しかも、皇帝継承権第一位を持っている。

 ヴィンレットにはなくて、ニールセンが持っているもの――。
 それは。

 いま自分が『皇帝の座に就いている』という事実。

 それだけだ。


 ニールセンは気を取り直し、再び分厚い書物のページをめくった。
 なにやらそれっぽい記述を見つけ、ニールセンは辺りを見回した。そして、部屋の隅の花置き台を見つけると、それを寝所の側まで引きずってきて、その上に本を開いたまま置いた。
 天蓋から垂らされた紋章入り織布を相手に、独学で技能を修得しようという魂胆だ。

「相手の手首を掴み――」
 本の記述を読み、両手それぞれに織布を握り締める。
「自分の全体重をかけるようにして外側へねじり――……?」
 ニールセンは勝手が分からず、織布を掴んだままその場で回転した。
 当然のことながら織布はニールセンに絡みつき、逆回転して戻ればいいものを、気が動転してそれすらも思いつかないらしい。
 ひいいい、と声にならない叫び声を上げ、手足をばたつかせた。
 繊細なつくりの織布は非力なニールセンでもなんとか破ることが出来、全身ぐるぐる巻きの状態で床に倒れ込み、ようやく脱出に成功した。
 しかし、打ち所が悪かったらしい。布と格闘していると左足首に違和感が――どうやら、ひねったようだ。
 とりあえず、立てる。しかし、歩くのは辛い。
 惨めだ。あまりにも惨めだ。
 破れた織布の残骸を床に投げ捨て、汗と涙をぬぐいながら、必死に呼吸を整えようと試みた。
 こんなところをロビンに見られたら、あまりにカッコ悪すぎる。
 ニールセンはそこでようやく本の表紙を確かめた。

『武闘家プージー・真実の強さを見つける旅』

「な……な……ブトウとは!?」
 せっかく整えた呼吸もむなしく、再び動悸が激しくなり、皇帝ニールセンはそのまま目眩を起こして――お倒れあそばしたのだった。



 その翌日――。
 宮廷では月に二度、定例昼食会が催されることになっており、今日ちょうどその日に当たっていた。
 皇族と元老院との、テイのいい親睦会である。
 宮廷昼食会には皇帝ニールセンと長老たちと大臣、そして皇帝の叔父上、ヴィンレット・アイゼンもそのメンバーに名を連ねている。

 本日、皇帝ニールセン、体調不良でご欠席と相成った。


 昼食会の始まる少し前に、ヴィンレットは宴の間に姿を現した。
 全身、深い青色の礼服に身を包み、派手な宝飾品で全身を飾り立てている。歩く度にシャラシャラと涼しげな音を立てるので、背後から近づいてきても誰だか分かるほどだ。
 そして、甘く上質な香りをいつも通り纏わせている。
 ヴィンレットは、大臣たちと昼食会の打ち合わせをしていたロビンを見つけると、シャラシャラと近づいてきた。
「首尾はどうだい、ロビンちゃん」
 ロビンは大臣たちに一礼し、その場を離れた。そして、ヴィンレットの腕を引っ張り、壁際へと促した。
「どうもこうも……ニール様、伏せっちゃいましたよ」
 ロビンは渋々、ヴィンレットに事の顛末をすばやく説明した。
 すると、ヴィンレットは堪え切れないといったふうに、柄にもなく豪快に笑ってみせた。
「わははは。さすがは日陰っ子だね。目眩起こして倒れて足を怪我するなんて、ただのバカじゃないか、わははは」
「あ、アイゼン公! 昼食会にはお偉方もたくさんいらっしゃってるんですから、あまり過激な発言は控えてくださいよ、もう……聞かれたらどうするんですか?」
 ロビンは辺りを気にしながら、叔父ヴィンレットの発言を諌めた。
 すると。
「バカにバカと言ってどこがいけないんだい、ロビンちゃん。言っとくけどね、僕に何かを意見できる人間なんて、この国にはいないんだよ。それでも言ってくるとすれば、それは君だけだ」
 そう言ってヴィンレットは、白手袋のはめられた右手の人差し指を、ロビン少年の鼻先に突きつけた。
 払いのけるわけには、いかない。
 普段なれなれしい口をきいてしまっているが、本来なら身分違いで言葉も交わせぬほどの地位の高い人間だ。
 ロビンは鼻先に指を突きつけられたまま、弁解を試みた。
「そんな、意見だなんて……そんなつもりでは。それに、一応立場上はニール様はアイゼン公に意見できる気がしますけど……?」
 一応、と冠してしまうところが何だか悲しい。
 ヴィンレットはようやく指を引っ込めた。
「立場上は、ね。確かに」
 こればかりは仕方のないこと。
 皇帝の座は、ニールセンのみに与えられたものなのだ。


 ヴィンレットは一息つくと、整えられた茶色の短髪を、意味もなくかきあげ、話題を変えた。
「怪我したんなら、どのみち舞踏会は無理かな。僕はね、ジル殿さえ来てくれたら、ニールセンがいてもいなくてもどっちだっていいんだよ」
 間違いなく、本音だ。
「……きっと、そうでしょうね」
 ロビンは立場上肯定したくなかったが、今までの話の流れをすべて知っている身としては、こうなることは当然の展開だ、と思わざるをえなかった。
「一緒に連れ立って来たら来たで、あいつより僕の方がいい男だって証明する絶好の機会となりえるし、来なければ来なかったでジル殿とゆっくりと語らうことができる。ロビンちゃん、そのくらいはちゃんと考えてくれるだろう?」
「僕はアイゼン公に逆らえる立場じゃないですからね」
 身分もそうだが、ロビンはこの皇帝の叔父に多額の借金をしているのだ。
 立場弱すぎである。
「けど……絶対あとが怖いですって。ジル様のことが絡むと人が変わっちゃいますから……。なんか、ニール様のお部屋に武闘家プージーの書物なんかが落ちてまして……寝所の織布も滅茶苦茶に裂かれてて。かなり精神状態も参っていらっしゃるようで。……ヘタすりゃアイゼン公、命落としますよ?」
 確かにニールセンは癇癪持ちだが、それを武術などの力に頼ろうとする事は今までなかったのだ。
 ジルが皇后になってから、ニールセンにいろいろな心境の変化が見られるのは事実である。
 ジルにちょっかいをかけてくるヴィンレットに対して、何らかの行動を起こすことも充分ありえる、とロビンは本気で心配していた。
 しかし、叔父ヴィンレットは真剣なロビンの眼差しを最高の笑顔で払いのけた。
 完全に、無敵だ。
「へなちょこパンチでも食らわすのかい、この僕に? ははは、ロビンちゃんそんなに心配しなくても大丈夫だよ。殺られる前に殺るから――なーんてね、ははははは」
「や、止めてくださいよそんな黒い冗談は!!」


 ロビンとヴィンレットには、ニールセンの私室の『書物と織布の本当の理由』を知る由はない……。
 知らないほうが身のためである。


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