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皇帝嘲笑(1)  
 もっともっと、早く気付くべきだったのだ。

 皇后ジルがとうとう皇帝ニールセンと住まいを共にする、という情報が公式に発表されると、宮廷中が沸き立った。
 あまりにことが順調に運んだため、皇帝ニールセンと皇后ジルを取り巻く宮廷の人々は、何の疑いもせずに二人の仲睦まじく寄り添うお姿を拝見しては、帝国の安泰を喜び、笑みを浮かべていたのだった。
 それが一夜にして、まさか国家をも揺るがすような大事件に発展しようとは、このときは誰一人として思っていなかったに違いない。



 今までジルが暮らしていた西宮から、すべての家財道具やら必需品やらを一日がかりで、皇帝の住まいである新宮へと移されることとなった。
 城に仕える宮廷役人の半数がその任務に当たったが、日が暮れる時間までかかってようやく完了した。
 人件費だけで莫大な金額に膨れ上がっている。そして、閑散としていた新宮のすべての空き部屋も、ジルの持ち物で膨れ上がった。

 ニールセンは新宮のあわただしい様子についていけず、皇帝私室にこもったままだった。
 ロビンは運び込まれるジルの荷物を振り分ける指示を出し、そしてニールセンの部屋まで作業人たちを連れて入ってくる。
「ニール様。これからこちらも作業に取り掛かりますので、執政室にでも退避していて欲しいんですが」
 突然の出来事にニールセンは途惑ったようだ。わずかに首を傾げ、ロビン少年に聞き返す。
「作業とな? 余の部屋は関係なかろう?」
「今のままでも大きさ的には充分ですが、せっかくですからもう一回り大きいものに変えることにいたしましたので」
 ニールセンは目を瞬かせた。ロビンの言っていることが理解できていないらしい。
「だから、何をじゃ?」
「何って……ニール様の寝所ですよ。今日からはジル様とご一緒ですから」
「一緒? 皇后と同じ寝所で眠るのか?」
「そうですよ」
 ロビンがそう言うと、ニールセンはふうんと、分かっているのかいないのか、中途半端な返事をした。
「並んで眠ればよいのか?」
「お好きなように」
 その先のことは、ロビンが干渉するべきことではない。作業の邪魔にならないようにと、うろうろするニールセンを適当にあしらい、早々に執政室へ追いやると、ロビンは寝所の入れ替え作業に追われることとなった。

 そうして、ニールセンとジルの楽しい楽しい新婚生活が始まった――かにみえた。



 陽もまだ昇らぬ早朝の新宮に、皇帝ニールセンの断末魔の叫び声が轟いた。
「ぐわあぁぁぁっ! ロビーンっ! ロォォォォビィィィィンンンンっ!!」
 その恐ろしい声は、同じ階の端に位置するロビンの部屋まで、当然の如く響いてきた。
 ロビンは急いでニールセンのいる皇帝私室へ駆けつけた。
「いったい、どうしたんですか?」
 ニールセンは立ちすくんだまま、ぜいぜいと必死で呼吸を繰り返している。その顔は青ざめ、夜着ははだけたまま。まるで何者かに襲われでもしたかのように、その表情は硬く強ばっている。
「皇后が……皇后が……あああ」
 もう、言葉もおぼつかないようだ。美しい金髪を両手でぐしゃぐしゃと激しくかき回す。
「ジル様が? ニール様、一体何があったんですか?」
 普段からしょっちゅう癇癪を起こして暴れることはあったが、今回の取り乱し方は尋常ではなかった。
 さすがにロビンも心配になり、いつもよりも優しく話を聞こうとすると、皇帝ニールセンは涙目になりながら後ろ手で『何か』を指差した。
「余の寝所に……ラスビーを入れよったああああっ! 余の身体の上を這い回って、きーきー暴れておったわ!!」
 ニールセンは半狂乱になって喚き散らし、ロビン少年の足元にすがりついた。

 ――ラスビー??

 その訴えを確認すべく、ロビンがニールセンの指差す方へ目をやると――確かにニールセンの言うとおり、寝所の敷布の上を真っ白な小動物がうごめいているのが見える。
「良かったじゃないですか、死骸じゃなくて」
 ラスビーは庶民の間でも人気の、手のひらサイズの愛玩動物だ。
 死骸なら究極の嫌がらせだが、生きているならさほどのことではない。
 しかしニールセンは、小動物が大の苦手だった。だからこそここまで大げさに騒ぎ立てることができるのだ。
 ロビンはニールセンの癇癪の原因が分かったため、とりあえず安堵のため息をついてみせた。
 そして、ふと気付いてしまう。

 ――ジル様が、このラスビーを……?
 
 そう。
 いま皇帝私室にいるのは、ロビンを除けばニールセンとこの白いラスビーだけだ。
 皇后ジルの姿が見当たらない。

 ――まさか……。

 ロビンは何だか嫌な予感がした。足元では尚もニールセンが喚き続けている。
「そういう問題ではないわ! 余が皇后に何をしたというのじゃ!? 何もしておらぬのにこの仕打ちとは! 余ははらわた煮えくり返る思いであるぞ!!」
 皇帝、ご立腹にあらせられるご様子――しかし。
 ロビンの嫌な予感は、まさに的中。
「何もしておらぬのに……ですか?」
「ええい、くどいわ。何もしておらぬと言うておるではないか!」

 ――本当に何にもしなかったんだな……きっと。

 ロビンは怒りまくるニールセンをどうなだめたらよいものか、その対処に困ってしまった。

 そして、その日のうちに。
 宮廷役人たちは時間を巻き戻すように、新宮から西宮へと、皇后ジルのすべての荷物を、再び一日がかりで移動させることと相成ったのだ……。



 翌日の午前のこと――。
 ロビンが謁見の間控室のとある一室にわざわざ呼び出したのは、例によってこの青年だった。
 ヴィンレット・アイゼン公爵。皇帝ニールセンの同い年の叔父である。
 昨日の早朝の一件でその対処に困ったロビンが、ヴィンレットを相談相手として選んだのだ。
 いろいろと人間的に問題はあるものの、近隣諸国の社交界の情勢に詳しく、頭もいいこの公爵に話すのが、問題解決の近道だと考えたからだった。
 その近道は、地雷だらけの危険地帯であることは充分承知の上である。
 なぜなら。
 コトは急を要するからだ。それほど事態は緊迫の様相を呈していた。
「なんか嫌な予感がしてたんですよねぇ……身体は大人でも中身は幼児ですから、ニール様は」
 ロビンはヴィンレットに花茶の入ったカップを差し出した。
 ヴィンレットは好物の花茶を飲みながらロビンに事の顛末を詳しく説明を受け、やがて呆れたように言った。 
「一日で既に別居、か。まあ、ジル殿が怒るのも無理はないかな。けど、ニールセンはまったく気付いてないんだろう?」
「でしょうね。だって、よくよく考えたらですよ? 誰も教えてないですもん。この手の話って、年頃になると友達同士の間でこっそりと広まっていくもんじゃないですか。残念なことに、ニール様には同等に付き合える友人はいないですからね……」
 ヴィンレットは花茶を飲み干したカップを華麗な所作で音を発てずに置いた。そして、ソファにふんぞり返り腕組みすると、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「ロビンちゃん、君が教えてやったらどうだい?」
 確かに。
 皇帝ニールセンの側にいる人間で一番歳が近いのは、二歳年下のこのロビン少年である。
 しかしこればかりは……。ロビンはヴィンレットの提案にしどろもどろになってしまう。
「教えてあげられるほど僕だって詳しくないですって! そ、そんなこと言うんなら、アイゼン公が教えてあげてくださいよ!」
「そんなのゴメンだね」
 ヴィンレットは即答で断った。さすがは皇帝継承権第一位。誰の指図も受けないその態度は潔ささえ感じさせる。
「言っておくけど僕は友達じゃないから。第一、ニールセンは僕の話をまともに聞こうとしないじゃないか? 逆なら引き受けてもいいけど」
「逆? 何ですかそれ」
 ロビンの問い掛けに、ヴィンレットはこれ以上ないほどの素適な笑顔を見せた。
「ジル殿を優しく慰めるお役目」
「……それこそゴメンですよ」
 やはり相談する相手を間違ったようだ。

「しかしですよ……ニール様は一般人とは訳が違いますから、今回の一件、笑い話では済まされないんですよね。このままでは、お二人の婚姻関係解消なんてことも充分ありえますから」
「ラスビーちゃん、一匹でかい? そりゃいい!」
 問題なのはここからなんですよ、とロビンはヴィンレットの茶々を諌めるように言い、そして続ける。
「今回の一件が原因で、ジル様は来たる先帝の一年忌の出席を拒否すると言い出しまして……その発言が皇后としての資質を問う大問題へと発展しつつあるんですよ。……ここだけの話、今日の午後、臨時の元老院会議で今後の対策を話し合うことになったんです。もちろんニール様とジル様には内緒なんですが」
 ロビンの話を聞き、ヴィンレットがなんとも楽しそうに微笑んだ。
 人の不幸は蜜の味――ヴィンレットは所詮、有閑貴族なのだ。
「そんな内緒話、僕にしちゃっていいのかい? はははは。まあ、僕にとってはそのほうが都合いいかな。そうなれば『叔父の横恋慕』なんて陰口も叩かれずに済む」
「ええ? 誰ですかそんなひどいことを言う人間は……」
 ひどいことなどない。事実である。
「はははは、ロビンちゃん、面白い冗談だねそれ」
 ヴィンレットはそう言って、両手で思い切りロビンを指差した。
「僕のは『陰口』じゃないです。ちゃんと本人の前で言ってますから」
 まあいいけどね、とヴィンレットは指差すのをやめ、整えられた茶色の短髪を意味もなくかきあげてみせた。
「しかしまあ……最近の宮廷は退屈知らずだな。楽しいばかりだけど。はははは」
 そんなヴィンレットの軽快な笑いが、ロビンのため息を尚一層、深くさせたのだった……。


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