先帝の一年忌がしめやかに執り行われている、皇帝家御苑にて。
やはり、ニールセンの隣は空いたままだった。
黒い皇帝服に身を包み、はじめはおとなしく座っていたニールセンだが、やはり姿を現さぬ皇后のことが気になるようだ。
周囲の人間への建前もあり、ニールセンは強気な態度を崩そうとしない。しかし、その態度とは裏腹に、そわそわと落ち着きなく動いている。
「もう我慢ならぬ。こうなれば余が皇后のもとへ参る。余はラスビーが嫌いだとはっきりと申さねばならん。そうじゃそうじゃ、言ってやらねば」
「……なりませぬぞ、陛下」
しかし、あっけなくジイの反対にあう。
空いた皇后席の反対隣にピンガじいは座っている。催事の進行を妨げぬように、声量を押さえて喋ってくる。
「何故じゃ? 余が頭を下げるのではない。様子を見に行くだけじゃ」
「ならぬといったら、なりませぬ」
「ジイもしつこいのう。このつまらぬ催しが終わってからなら良かろう? いつもの服に着替えねば――この真っ黒の祭事服姿を見たら、皇后は驚くかもしれぬ。……いや、少しくらい仕返しに驚かせてやったほうが良いのか?」
意地を張っているが、何とか仲直りをするきっかけを見つけようと、あれやこれやと考えているらしい。
もうかれこれ五日も顔を合わせていない。
普段は住まいを共にしていなくても、食事を共にしたり、庭を案内がてら散策したりと、二日あけることなく会っていた。
五日間はニールセンにとってギリギリ我慢できる限界だった。
「西宮に出向かれても無駄足ですぞ。ジル殿はもはや、西宮におわしませんからの」
ピンガじいはニールセンのすぐ脇で、すばやく説明をした。言いにくいのか、ピンガは前を向いて座ったまま、傍らに腰掛けるニールセンと視線を合わせようとしない。
状況を察した周囲の人間たちの顔に、緊張の色が走った。
視線はみなニールセンの顔に注がれ、若き皇帝の続く言葉をじっと、固唾を飲んで見守っている。
「……何と申した?」
「元老院の決定なのですぞ、陛下」
ニールセンは状況が把握できずに混乱しているのか――語調を荒げることなく、淡々と目の前のジイに問う。
そしてピンガじいも、それに淡々と答えるばかり。
「この間、陛下にご説明申し上げたはず。別な后を娶らせると。ジル殿は隣国へお戻りになられたのです」
「戯言を申すでない」
「戯言ではございません」
ニールセンの美しく整った人形のような顔が、小刻みに震えだした。
深い青の両目はこれ以上ないほどに見開かれ、愕然とした表情でジイの顔を食い入るように見据えている。
時間が止まった。
そう感じるほど、ニールセンの世界のありとあらゆるものの、動きが止まり音もしなくなり――脳裏を駆け巡るのは、皇后ジルの優しい笑顔、照れたような笑顔、驚いたような笑顔、そして嬉しそうな笑顔。
――ああ。
皇帝ニールセン、お壊れあそばした。
この世に生を受けて早十八年。人生の中において最も激しい感情に支配された『皇帝陛下、ご乱心』、始まり始まり……。
「いやじゃいやじゃいやじゃーっ!」
ニールセンはおもむろに立ち上がり、宮廷御用人の制止も振り切って、一年忌の祭壇の前の供物を、辺り構わず投げつけた。
花かごは飛ぶわ、生菓子は大臣の顔に張り付くわ、帝国名物花酒の大瓶を掴み、その場でぐるぐる回り遠心力を利用して次々投げ飛ばすわ……。
来賓席から悲鳴が上がる。
「余を置いてどこに行くと申すか! 許さぬ、そのようなこと許した覚えなどないわ! 皇后! 皇后!! 余の声が聞こえぬのか!」
ニールセンは尚も花酒の大瓶を振り回しながら、皇帝家御苑から目と鼻の先の西宮へ向かって、絶叫を繰り返す。
しかしいくら叫んでも、西宮は静まり返ったまま。騒ぎを聞きつけて誰かが出てくるという気配もない。御用人の姿もない。
西宮にはもはや、誰もいない――。
「陛下! ご先祖の御前ですぞ! お気を確かに!」
「ええい、ハゲジジイ! 余の側に寄るでないわ! ケガらわしい!!」
こうなってしまっては、誰も手を付けられない。しかしそこは皇帝教育係、場数が違う。ニールセンの背後を取り、羽交い絞めにする。
「投げるでなあああいっ! この花酒は稀少な銘酒、先帝のお好きだった品、罰当たりにもほどがありますぞ!」
しかし、今日のニールセンはいつもと勝手が違った。虚弱体質がウリの皇帝陛下、ジイの羽交い絞めを自力で脱出し、除幕前の墓碑目がけて投げ飛ばした。
見事命中。墓碑は鈍い音を発てピンガじいの下敷きとなる。幕の下の惨状は確認しなくても明らかだ。
鈍い音の発生源は、こちらかもしれないが……。
「あいたたたた……なんと行儀の悪い! ごほごほ……げほ」
じいは咳き込みながらも、何とか自力で立ち上がってくる。不死鳥だ。
ようやく体力の尽きたニールセンは、その場に崩れるようにしてへたり込んだ。
「勝手に皇后を連れてきて娶わせたり、引き離したり、何故余の知らぬところでいつもいつもそうやって物事を進めるのだ!」
「だから言ったでしょうに? こうなることくらい、予想がついたはずですよ」
一年忌に参列していたヴィンレットが、ようやく姿を現した。
皇帝ご乱心の瞬間から側にいたはずなのだが、危険を察知して早々に避難し、高見の見物をしていたようだ。着衣に全く乱れはない。
騒ぎが収拾しかかったところを見計らって出張るのは、計算高いヴィンレットならではだ。
不死身のピンガに嫌味を言いつつ、ヴィンレットは片手を上げて、事後処理を自分に任せるよう合図した。
「陛下に良いことを教えて差し上げようと思いまして」
「おぬし、どうせ余のことを笑いに来たのであろう」
「笑って差し上げたいのは山々ですが――状況が少し変わったんですよ」
ヴィンレットは地面に座り込むニールセンの正面に回り込み、片膝をついた。ふわりと香水の匂いが漂う。
「マイシェル公が――つまりジル殿の父君が、ユアン国と同盟を結んだんですよ。それによって経済危機は完全に解消され、むしろ余裕さえ出てきたようです」
「おぬしは何を小難しいことを言うておるのだ? 分かりやすく申せ」
「ジル殿が我慢してこの国にとどまる理由はなくなったということですよ。陛下とジル殿の不仲はとうにマイシェル公の元へも届いていることでしょうから」
不仲。確かに間違いではない。
しかし、たかだか四、五日の話である。
「た……た……ただのケンカではないか。どうして余の皇后を取り上げられねばならんのじゃ?」
ヴィンレットは珍しく神妙な面持ちで、じっとニールセンの話に耳を傾けていた。
「それは……確かに余の懐が小さかったのかも知れぬ。皇后の悪戯を許せぬはその証。仕方がないではないか。余は皇帝ぞ? 相手が誰であろうと頭を下げることはまかりならん」
ヴィンレットは尚も頷くばかり。いつものように悪態をつくこともなく、同い年の甥の話をひたすら聞いている。
「皇后も余の良き伴侶であるなら、それを理解してもらわねば困る。そうであろう? ヴィンレット、余は間違ったことを申しておるか? 何も間違ってはおらぬな?」
普段から仲の良くない二人である。
しかし結局のところ、お互いの立場を一番理解できるのは、同じアリエス皇帝家の血を引く者同士なのだ。
たった二人しか残されていない、帝政の未来を繋ぐ糸。
「……一つだけ、ご助言を授けましょう。ともに夜を過ごすときはですね、相手を退屈させてはいけないのですよ? 先に眠りに就くなんてもってのほかですしね。ラスビーはジル殿の精一杯の自己表現だったということに気付いておあげなさい、陛下?」
ジルがなぜ、寝所にラスビーを忍び込ませたのか――。
その理由が、その非が自分にあったことをヴィンレットから聞かされ、ニールセンは愕然となった。
「だ、だ、誰もそのようなことを教えてくれなかったぞ? ロビンが一緒の寝所で眠れと申したのじゃ。それ以上のことは何も聞いておらぬ。先に寝てはいけないなどと……」
――あの日、皇后が側にいることが嬉しくて、とても安心できて眠りに就いた。
神経質で疑心暗鬼、不眠がちなニールセンにとっては、珍しいことですらあったのに……。
「皇后は余が先に眠りについたことに腹を立てておったのか……」
「……まあ、そんなところでしょうか?」
本筋からはだいぶ外れた理解の仕方だが、全くの間違いというわけではないので、ヴィンレットは適当に相槌を打った。
「恐らく今日は国境の町へお泊りになられるはず。今夜が最後のチャンスですよ、陛下」
「もう手遅れじゃ……もう皇后は余の元を去ってしまった。……余のせいでこんなことに……ああ、なんてことを」
プチ、と軽く何かが切れる音がした。
ヴィンレット・アイゼン公爵様の我慢の糸、である。
「……いいから早く行けよ、ニールセン?」
皇帝本人の前では敬う言動を崩さなかったヴィンレットが、とうとう本性を現した。
「余、余、余のことを呼び捨てにしおったな??」
「ああ、何度でも言うさ、バカ甥ニールセン。地位はこの国『最高』かもしれないが、女性を悲しませるのは男として『最低』だぞ」
「さ、最低とな!? ……確かに余は最低じゃ。おぬしに言われなくても、解っておるわ……」
「解っているならいい――」
ヴィンレットはニールセンの前から立ち上がり、片膝についた芝草を優雅に振り払うと、そのまま背を向け立ち去っていった。
宮廷御用人たちは、皇帝ご乱心による先帝一年忌「跡地」の片付けにおわれていた。
その姿を、ニールセンは地面に座り込んだまま、おぼろげに見つめていた。
ニールセンがロビンをつれて、お輿に乗って国境の町へたどり着いたときには、既に陽は落ち、あたりは暗くなっていた。
宿場町独特の活気に満ちあふれている。
人目を忍ぶようにして、上流階級御用達の高級宿屋へと入っていく。
あくまで皇后ジルもお忍び。人目を憚るようにして物々しい警備は付いていない。
国境を越えるまでは帝国側の人間だ。警備についているものも宮廷警備隊の隊員である。
廊下で警護の任についていた青年は、ロビンとニールセンの姿をとらえると、慌てて身を正し、敬礼をした。
警備隊の青年は驚いていたが、どこかほっとしているようでもあった。
恐らく、別れの挨拶も交わすことなく半ば無理やり帝国をあとにさせられようとしている皇后ジルの、やり切れぬ思いをくみ取ってのことだろう。
ニールセンがジルを追ってここに現れたことで、重く沈んだ空気が少しでも浮かび上がるのでは、という期待もあるようだ。
「皇后はどうしておられる?」
「奥の迎賓室でお休みになられております。お食事にも手を付けられておりませんので、ご心配申し上げているのですが……」
「ロビンはここで待っておれ。余が一人で行く」
「は……はい。では、何かありましたらお呼びください」
「余を置いてどこへ参るつもりじゃ? 皇后よ」
聞き覚えのある声に、少女は振り返った。両目を見開き、言葉を発することなくただひたすら、突然目の前に現れた二度と会うことのないはずの伴侶の姿を見つめていた。
「余のことを嫌いになったか?」
「……」
「すまぬことをした」
「……」
ニールセンは、椅子に腰掛け口が聞けなくなっているジルの前に進み出た。
そしてゆっくりと片膝をついて、深く頭を垂れた。
「ヴィンレットに聞いて、その、初めて知ったのじゃ。ただ寄り添うて眠るだけでは駄目なのだと」
ニールセンは尚もジルに頭を下げたまま。
「余は皇后に退屈な思いをさせてしまったのだな? 初めてそなたに出会ったときも申したが、余は本当に人馴れしておらぬのだ。だから、誰かと共に暮らすときの作法などまったく心得ておらぬ。――余を、許してくれぬか?」
「……陛下。まさかとは思いましたが、やはりそうだったのですか」
ようやくジルが言葉を発したので、ニールセンは安堵した。
ニールセンは顔を上げ、どこか物悲しげなジルの顔をしっかりと見つめた。
「余はヴィンレットのようにものごとが達者ではない。退屈させぬとは言っても、余は皇后に何をしてやれるであろうかと、ずっと考えておった」
「……?」
「歌うことも踊ることも政治を語ることも出来ぬが――余がヴィンレットにも負けぬものが一つだけあったのじゃ」
意気揚々と喋りだすニールセンを見て、ジルは驚いたようだ。どんな話をされるのか全く想像がつかないらしい。
表情が少し晴れたのを確認して、ニールセンは更に続けた。
「余は幼い時分より体が弱かったゆえ、寝所で過ごすことが多かったのじゃ。そこで余は絵を見ていた。帝国神話の神々の載った画集をな。皇后はいくつ神様を知っておる?」
「帝国神話の神様は全部で31だったと思いますわ」
「もっとおるのじゃその三倍、93もの神々がおるのじゃ。余はその全ての名を言えるし、どんな神かも言えるぞ?」
皇帝陛下がこんな辺境の宿場町まで来て、帝国神話の話を得意気に説明しだす。
ニールセンが余りに楽しそうに話すため、ジルもいつの間にか微笑を取り戻していた。
あと、一押し。
ニールセンは子供のように無邪気な笑顔を、ジルに向けた。
「皇后が眠りに就くまで、余は神話を語って差し上げようぞ?」
「楽しそうですわね。…………でもそれはもう――叶わぬ夢ですわ」
それまで楽しそうに話を聞いていたジルの表情が、突然曇りだした。
現実に自分の置かれている状況を、思い出したのだろう。
「わたくしは、元老院の大臣の方々から、皇后として不適切だと判定が下されましたわ。だから――陛下のお側にいる資格などございませんのよ」
「それは余が何とかする」
ニールセンの言葉に、ジルは首を横に振り、半ば諦め顔で否定した。
「何ともなりませんわ。一度押された烙印は二度と消えることはありませんのよ」
「嫌じゃ。皇后が側におらぬのは嫌じゃ」
これが今のニールセンの全てだった。
細工も駆け引きもない、皇帝陛下の心の声である。
もう、思いは留められない。
「元老院での決定事項は絶対――陛下のお力でも、どうすることも出来ません――そんな、泣かないでください陛下……」
ジルは心配そうにニールセンを見つめている。
叫ぶことも暴れることもなく、声を押し殺すようにして、若き皇帝はただひたすら涙を流し続ける。
ニールセンにも解っているのだ。
どんなにオツムが弱く政治に無関心であっても、この国における元老院の決定権がどんなに強いものであるのか――。
だからこそ悲しく、だからこそ悔しい涙。
「余の、皇帝の力をもってしても叶わぬことがあると申すか。余は一体何なのじゃ。余はただ、そなたと共におりたいだけなのじゃ……」
ニールセンの純粋でまっすぐな想いは、充分ジルに伝わっているはずだった。
離れなければならないという障害が、逆にお互いの気持ちを確認し深め合い――しかし皮肉にもそれが終止符となる。
「明日ここへ、マイシェル家から迎えの使者が参りますの。陛下、ふた月の間、とても楽しゅうございました」
目の前の若く美しき皇后は、今までに見せたどんな笑顔よりも、嬉しそうに微笑んでみせている。
「ここまでお見送りに来ていただけて、本当に――嬉しかったですわ」
そう言って皇后ジルは、ニールセンの首に手を回すようにして抱きつき、涙で濡れるニールセンの頬を拭うようにして、自分の頬を優しく触れ合わせた。
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