「それで? のこのこ戻ってきたというわけですか?」
ヴィンレットの目の前には、魂の抜けたような情けない顔の若者が鎮座していた。
「その通りじゃ」
皇后ジルを引き止め、迎えに行ったはずが、単身で出戻ってきた挙句に――。
「……というかなぜお城へ戻られないのです? わざわざ僕の顔を見に来たなどということは絶対ありえないでしょうし」
そう。ここはヴィンレット・アイゼン公爵邸の客間である。
ニールセンはジルと別れたあと、何を血迷ったか――天敵の叔父ヴィンレットの屋敷を訪れたのだった。
普段の皇帝なら、側に寄るのもよしとしないはずなのに、今日は何かが違う。
頼りなげながらも、真剣な面持ちでじっと天敵ヴィンレットの顔を見つめている。
「余の頼みをきいてはくれまいか」
前代未聞のニールセンの『お願い』に、ヴィンレットは面食らったような顔をした。
半信半疑――。
「陛下が? この僕に? はははは。……いいでしょう。しかし、高くつきますよ?」
ヴィンレットは意地悪く笑ってみせた。恩を売る絶好のチャンスとばかりに、やたらと食いつきがいい。ソファの背もたれに身を預け、ふんぞり返るようにして、ニールセンの言葉を待った。
皇帝の頼みは、たったの一言。
「充分釣りが来るわ。――おぬしに、皇帝の座をくれてやる」
二人は視線を合わせたまま、微動だにしない。
それからそのまま、二人の間にはいっさい言葉がなかった。
十日後――。
ヴィンレットは一人帝国を離れ、見慣れぬ土地の風景を楽しんでいた。
隣国とはいえ、移動に要する時間は丸二日。
旅の疲れを癒す間も無く、ヴィンレットが向かった先は、敷地だけは無駄に広い、どことなく古びた感のある大きな屋敷だった。
キーキーと、どこからかラスビーの鳴き声が聞こえてくる。野良が隙間から入り込んでいるらしい。
ヴィンレットは呆れたようにため息をついてみせた。
屋敷の中をラスビーが走り回るようでは、国家の財政が傾いているという話も充分頷ける。
「大公殿にお目にかかりたいのですが――」
門番らしき男に颯爽と近づき、ヴィンレットは用件を言う。しかし、門番は決められた台詞を吐くだけだ。
「お約束でしょうか?」
「いいや。何か不都合でも? 帝国より使者が参上仕ったと、あなたのご主人にお伝えなさい――早く」
ヴィンレットが急かすと、門番の顔色が変わった。
「て、帝国――の方ですか?」
「僕の顔を知らない? 君も大公様に仕える身分なら、近隣諸国の王族貴族のことは学んでおくべきでしょうね――」
きー、と野良のラスビーがタイミングよく相槌を打った。
「帝国より、使者が参られました」
ジルの父・マイシェル大公は側近の若者の報告に眉をひそめた。
謁見の間の造りのよい椅子に腰掛け、傍らに寄り添う美貌の娘の表情を確認するように見る。
帝国の使者、という言葉に特に動揺しているような素振りは見せていない。
ただ、物憂げに窓の外を眺めているだけだ。
「使者だと? 適当にお相手して差し上げろ」
こまごまとした事後処理のためにやってきたのだろうと、勝手に決め付ける。
帝国とは極力関わりを持ちたくないというのが、マイシェル大公の考えのようだ。
しかし、側近の若者は困ったような表情のまま。
「それが……私どもでは立場的に釣り合いませんので――大公様がお会いになられたらよろしいかと」
「誰じゃ? ピンガ・バックス殿か?」
「いえ、もっと上……ヴィンレット・アイゼン公爵殿、隣国の皇帝の叔父君です」
そこでようやくジルが、側近の若者に顔を向けた。
「あら、公爵様がおいでですの?」
謁見の許しも待たずに、ヴィンレットは部屋の中へと入った。
そして、飛び切りの愛想を振りまいて、礼儀正しくお辞儀をしてみせる。
「ご機嫌麗しゅう、マイシェル公殿」
一方のマイシェル大公は、表情を緩めず、儀礼的な挨拶を交わすことさえしない。
「貴殿の地位に免じて、私がお相手させていただく。此度の姫の扱いについて申したきこと多かれど、我が国も金銭的支援を受けるために、承知で姫を出したのもまた事実。多くは申しますまい。借り入れましたお金は私がすべてお返しします。しっかりと利子をつけてね。それで文句はないはずだが?」
私が返す? どの道それはお前の金じゃないだろう、とヴィンレットは心の中で毒づいた。
「お金などお返しにならなくてもよいのです。ジル殿はお金を引き換えるための道具ではありませんから。あの程度の端金……」
返そうが返すまいが、ヴィンレットにとってはどうでもいいこと。自分の懐は一切痛まない。
それよりなにより、お金の貸し借りのことでここまで出向いてきたのだと勘違いしていることに、ヴィンレットは憤りを覚えていた。
「ジル殿」
「はい、公爵様?」
「あなたは本当にそれでよろしいのですか?」
マイシェル大公の側に寄り添うようにしてたたずむジルに、ヴィンレットは試すように聞いた。
もちろん聞かれたジルは、訝しげな表情になる。
「どういう意味ですの?」
「そのままですよ。あなたが『このままでいい』とおっしゃるなら、僕はこのまま何も言わず戻りましょう」
「わたくしに――どうしろとおっしゃるのです。前にも申し上げたはずですわ。お金のためとはいえ、公爵様の申し出は受けられません、と」
きっぱりはっきり言い切った。
ヴィンレットは可笑しくなさそうに、フン、と鼻であしらった。
「ニールセンと僕なら、ニールセンの方がいいんだろう? じゃあ、ユアン国のバカ王子と僕となら、どっちがいい?」
「分かりませんわ」
「はははは、分かりません、ね。それでいいんですよ、ジル殿」
ヴィンレットは、今度は満足そうに微笑んでみせた。
その時である。
屋敷内のどこかで、何やら物々しい声が飛び交っている。
「賊が! 賊が侵入したーっ!」
「衛兵はどうした!? 何をやっておるのじゃ」
マイシェル公は側近の若者を怒鳴りつけた。
状況を確認するために、側近はそそくさと部屋を出ていく。
「何やら騒がしいですわねえ、父上様?」
「物騒ですね……お金をかけるべきところにはきちんとかけた方がいいと思いますよ、余計な心配かもしれませんが。屋敷の中に野良のラスビーが走り回っているくらいですからね、賊だって入るでしょうに。もっとも盗めるものがあるかどうかは不明ですが?」
ヴィンレットの嫌味を込めた発言に、マイシェル公は片眉をひきつらせた。
ざわめきがどんどん近づいてくる。
その『賊』の正体は……。
「ジ、ジル様ぁっ!」
「あら、ロビンさん?」
「ちょっと……何やってるんだい、ロビンちゃん?」
ジルもヴィンレットも、よく知る少年が突然目の前に現れて、ただただ驚くばかり。
「あ、アイゼン公! 言っておきますけど、僕は止めようと思ってここまで来てしまったんですから!」
ロビンは両脇を衛兵に押さえ込まれ、もがきながら必死の形相で顔見知りの男に救いの眼差しを向けた。
ヴィンレットはあくまで淡々と、軽くあしらう。
「止めようって――この僕をかい?」
「いいえ、そうじゃなくて――」
マイシェル大公はあごで『賊の少年』を指した。
「公爵殿、お知り合いか?」
「いえ。まったくの他人です」
切り返しの速さは神業に近い。
「あ……ヒドイ、アイゼン公……」
ジルはヴィンレットの無慈悲なあしらいを見かねて、父であるマイシェル公へ説明をした。
「陛下の影武者さんで、ピンガ大臣様のお孫さんですのよ」
身なりは地味な宮廷御用人だが、その氏素性がはっきりとしていたことが幸いした。
ピンガの名前を出すと明らかにマイシェル公の態度が変わった。捕らえていた腕を離すように、警備兵に命ずる。
「ピンガ殿の? ……賊とは、こやつのことか?」
「もうお一方、こちらの謁見の間へ近づいております」
側近の若者は、必死に弁解を試みた。
しかし、マイシェル大公の怒りが収まるわけもない。
「何をやっているのだ! はよう取り押さえぬか!」
「い、いや、実は我々では到底、手が出せませんので……」
言いにくそうに説明する側近の言葉を聞き、ヴィンレットの頭の中にはひとつの結論が浮かび上がってきた。
「まさか……ロビンちゃん? ここまで来ちゃってたりして?」
「そのまさかですよ!」
警備兵の波を押しのけるようにして広間に姿を現したのは、濃い青の豪奢な衣装に身を包んだ若い男だった。
一目見て特別な身分であることが判る。皇帝の第一礼装だ。
特別な儀式のときのみ着用を許される、天上人の証。
ニールセン・アリエス、その人である。
「皇后よ」
ニールセンは辺りに構うことなく、ただジルだけを見つめていた。
「ど……うなさった……のです?」
「余はそなたを迎えに来たのじゃ。我らの住まいへ帰るぞ」
二人の距離は言葉を交わせるギリギリだ。
ニールセンは白手袋を脱ぎ、揃えて左手に持つと、空いた右手を前方へ差し出した。
そのまま一歩、また一歩。ジルへ近づいていく。
やがて差し出した右手の指先がジルへ触れるところまで来ると、若き皇帝はゆっくりと立ち止まった。
「余の、皇帝としての最後の仕事じゃ。そなたを余の皇后として迎え入れる」
ニールセンの凛とした声が広間に響き渡った。
周囲の人々は驚きのあまり、言葉を発するどころか動くことも、呼吸することさえも忘れている。
ニールセンとジル、若き二人のやり取りに、視線が集中する。
舞台上には二人しかいない。
周りはもう、見えない。
ジルは僅かに身を引いた。
「帰れませんの。わたくしは皇后不適格の烙印を押されたのです。ですから、もう陛下のお側にはいられませんのよ。私の代わりに新しい御后様が――」
ジルは動揺している。忘れようと努めていたところへ突然現れ、しかも今までのヘタレっぷりがまるで嘘のように――。
およそ日の当たらぬ白い顔。絹糸のような金の髪に深い青の瞳。
たった十日間のことなのに、こんなにも懐かしくこんなにも愛しいとは。
激しく揺れる乙女心に、皇帝陛下は果てして気付いているのか――。
ニールセンはジルの言葉を遮るようにして言った。
「そのようなことは気にせずともよい。余の皇后は、余が選ぶのじゃ。初めはそうでなかったかも知れぬ。だが今は、余がそなたを選んだのじゃ」
誰一人、微動だにせず、じっと成り行きを見守っている。
「無論、元老院の決定が絶対であるのは余も承知しておる。しかし、皇后不適格などとそのような不名誉をそなたに背負わせとうない。余が半分背負う」
ニールセンの発する言葉の意味が解らないのか、ジルは呆然と目の前に立つ皇帝の顔を見つめた。
立場上、元老院の決定には逆らえぬと言っていた男が、ありえない台詞をはく。
「陛下――何をおっしゃられますの……? 半分などと――」
これがニールセンの言う、「皇帝最後の仕事」であるというのだろうか。
ニールセンは大きく一歩分前へと進み出ると、立ちすくんで動けないでいるジルの右腕をしっかりと掴んだ。
強引だが、扱いはとても優しい。
もう、逃げられない。
もう、逃がさない。
もう、離れない。離さない。――どんなことがあっても。
「そなたを正式に迎え入れたのち、皇帝位と皇后位を共に捨てようぞ。そなたが共におれば、余は何も要らぬのだ」
ニールセンがジルに子供のように無邪気に笑いかけている。
持って生まれた皇帝位を。
そなたと共におるために――捨てよう、と。
「皇帝でなくなれば、元老院にあれやこれやと言われることもなくなる。そしたら余は皇后とずっと――そうなれば皇后ではなくて、呼び方を変えねばならぬな。……ええと、その、なんだ」
ジルの腕を掴むニールセンの手の力は、決して緩むことがない。
すべてが越えていく――。
ジルの両目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
今まで多くの感情を表さなかったジルが、ニールセンの前で初めて、泣き顔を見せた。
「ジル、と。お呼び捨てくださいませ」
そう言って、美しき姫君は自ら皇帝陛下の胸の中へと飛び込んだ。
ニールセンはジルの華奢な背中に手を回し、そっと包み込みこむように抱きしめた。
「――ジルよ。案ずることはないぞ」
ジルのさらさらとくせのない髪が、ニールセンの頬に触れる。
「ヴィンレットには既に申した。次期皇帝を譲ると――」
マイシェル公を始め、ヴィンレットやロビン、側近や衛兵たちは、まるで芝居見物をしている観客の如く、美しき舞台役者と化した二人に見惚れていた。
「なんと……いい話だ。そうは思わないかい、ロビンちゃん?」
ヴィンレットは上着の胸ポケットから白いハンカチを取り出し、出てもいない涙をぬぐう真似をしている。
ロビンは、そんな三文芝居に興ずるヴィンレットと、抱き締め合う二人を交互に見て、素っ頓狂な叫び声を上げた。
「次期皇帝を譲るって――ほ、ほ、ほっ、ホントなんですか!? アイゼン公??」
きー、とまたもや野良のラスビーがどこか遠くで相槌を打った。
きー。きー。
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