ある日の昼休みのことだった。
菖蒲は、見知らぬ男子生徒に呼び止められた。
――屋上で、喜多川さんのこと呼んでる人がいたけど。
あやしい。明らかにあやしい。
しかし、この学校をシメてるインテリやくざ・桜井知宏と付き合うようになって早、半月ちょっと。
予期せぬあやしいことは頻繁に起こっている。
桜井は人気もあるが、同じくらい敵も多いのだ。
そんなやつの彼女となった今、自分は彼のウィークポイントという存在になったということを、改めて思い知らされることとなる。
屋上では、一人の男子生徒が待ち受けていた。
「君が、桜井サンの新しい彼女、なんだって?」
「誰だよ、お前」
ブレザーについている襟章の色は群青色。
――三年生。
顔色が悪い。痩せていて、なにやら病弱そうなその風体。
身長だけはやたらと高く、彼氏・桜井知宏と変わらないほど。
「しかもあの、『喜多川椿』の妹なんだってね」
「……だからお前、誰なんだよ」
いや、何となく思い当たるふしはあった。
つい最近、自分の下駄箱に嫌がらせをしてきたやつ。
「紅林……?」
「気に入ってくれた? 僕からのプレゼント」
……やっぱりそうか。こいつか。
紅林善造。桜井に惚れ込んでいるという、年上の舎弟――。
「どこまでいったの? 桜井サンと」
口の端を上げて、嘲るように笑っている。薄気味悪い。
「もうしちゃった?」
菖蒲は赤くなった。
何でこの男は、恥ずかしげもなくストレートに聞けるのだろう。
「うーわ、ヤらしてあげないんだ。困ったオンナノコだね」
だめ。心臓の鼓動が脳天まで響いてくる。
しかし紅林は、尚もたたみかけるように――薄笑いを浮かべながら。
「桜井サン、可哀想」
紅林が突然、菖蒲の腕を掴んだ。そのまま強引に引き寄せ、そして――。
何が起こったのか解らない。
頭の中が真っ白になった。
紅林の瞳は菖蒲の眼前にあった。あり得ないほどの至近距離。
こ、これって……。
次の瞬間、紅林の身体は吹き飛んだ。
菖蒲は死に物狂いで紅林を引き剥がし、ぐーを顔面にお見舞いしたのだ。
コンクリートの床に転がりながら、紅林は不気味にも身体を揺すって笑い出した。
「キスもしてなかったの? お話にならないね」
右手の拳が痛い――。いや拳よりも。
胸が、締めつけられる。どうしよう。
何とその修羅場にやってきたのは、桜井知宏だ。
菖蒲を呼び止めた男子生徒は、その足で桜井の元へと向かったのだ。
――屋上で、桜井さんのこと呼んでる人がいました。
最低だ――。この紅林という男。
「ちょっとだけ遅いよ、桜井サン」
こんな状況では、桜井の顔をとても直視できない。
桜井は察しのいい男だ。恐ろしく頭脳はキれる。
横たわる紅林と、うつむき加減の菖蒲を見て、何があったのかを大体理解したようだ。
しかし、冷静だ。じっと紅林の顔を見据える。
「左上の前歯、なくなってるぞ」
「差し歯だよ。元々のは、桜井サンに折られちゃってるから」
そこでようやく紅林は身体を起こした。そして血の混じった唾を吐き出す。
桜井は冷ややかな姿勢を崩さない。
「アヤメは俺に惚れているんだ。どんな手を使ったって、けっしてお前のものにはならない」
「そんなの解らないじゃないか? 僕はさ、桜井サンの物は何だって欲しいんだよ。それこそどんな手を使ってでもね」
へらへらと、おかしくなさそうに笑う紅林善造。
すると桜井の整った精悍な顔が、一気に般若の形相に転じた。
もともとがフランス人の血が混じった彫りの深い顔立ちだ。凄むとその迫力は桁外れ。
「俺が手を下す価値もない」
桜井は、校内外に響き渡るような、ドスの利いた大声を腹の底から出した。
「青島ァっ! 白崎ィっ!」
腹心の舎弟たちは、十秒と待たずに屋上に駆けつけた。さすがだ。
紅林が桜井の舎弟に連れられていってしまうと。
屋上には二人だけとなった。
「怖かったか」
桜井がゆっくりと菖蒲に近づいてくる。
「べっ別に、怖くなんかないさ、あれくらい」
「それにしても、見事なパンチだな。紅林は強がってたけど、俺が折ったのは右の前歯だ。……アヤメが折ったのはあいつの永久歯だよ」
そう言って、桜井はアヤメの右手をつかんだ。
うっすらと赤い痕がついている。明日になればアザになるかもしれない。
「こっ、このくらい平気平気! しょっちゅうお兄ちゃんとケンカして慣れてるし、それに」
桜井は黙ったまま。
菖蒲の右手を擦るようにいじっている。
すると桜井は、大きな手で菖蒲の手を握った。そしてそのまま屋上の出入り口に向かって歩き出す。
菖蒲は半ば引きずられるようにして、桜井に付いていった。
「どこに行くんだ、桜井? もうすぐ午後の授業始まっちゃうけど……」
「授業なんか、出なくていい」
「そりゃあんたは頭いいからいいけど、あたしは」
「あとで俺が教えてやる。今日は天気もいいから昼寝しよう、アヤメ」
「ひるね!?」
「俺がいつも行くとっておきの場所さ」
高校の裏手は小高い丘になっていて、多様な木々が鬱蒼と生い茂っている。
その中でもとりわけ大きな樫の木のところまで来ると、桜井は菖蒲を促し、幹に寄りかかるようにして腰掛けた。
手を繋いだまま――。
見晴らしがいい。校舎の屋根が木々の合間から見えているが、上手い具合に向こうの窓からは死角となっているようだ。
風が爽やかだ。そして遠くに聞こえる始業のチャイム。
程よい日の光が、これほど心地よいものだったか。
桜井はしっかりと手を握っている。そして触れ合う腕と腕。肩。
知らないうちに、菖蒲の両目から涙があふれていた。
桜井は目を瞠った。
「ゴメン……桜井。あまりに突然だったから、私、避け切れなくて、それであの」
「何でアヤメが謝るんだ。俺はそんなに心の狭い人間じゃない」
そう言って、桜井は握っていた菖蒲の右手をいったん離し、指と指を絡めるようにして、再びしっかりと握り締めた。
(了)
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