今日は水曜日である。
いつもより兄・椿の帰りは早いはずだ。必然的に晩御飯の支度も急がなければならない。
だから、水曜日は彼氏の桜井と一緒に帰らない。それはやつも解ってくれている。
でも、こいつは付いて来る。いつものように。
阪東達也。喜多川三兄弟のイトコだ。小さい頃から出入りしているから、そのクセが抜けない。それもある。
でもホントは、末弟の桔梗に会いたいからだ。その辺の女の子よりも女の子らしい、その天使のような容貌。一歩間違えば性別超えた近親相姦である。
いや、決してそんなことはさせないが。先立った両親に誓って。
喜多川家の台所で、菖蒲と達也は料理の下ごしらえに没頭していた。
「キョウちゃん遅いなあ、もうすぐ五時半だよ?」
「確かに……今テスト期間だから部活もないはずだけどな」
噂をすれば影、とはよく言ったもの、そこへ桔梗が帰ってきた。
「あ、キョウちゃんどうしたのー? うわー、可愛いなあ」
「……達也、お前いったいどっちのことを言ってるんだよ?」
学ラン姿の桔梗が、胸に抱えているのは紛れもない小動物。
茶色の豆芝のような子犬だ。ツヤのある黒目が愛くるしい。
「ねえ、菖蒲ちゃん。僕、これを飼いたいんだ。ちゃんと世話するから。だから……椿お兄ちゃんに、頼んで?」
桔梗は首を傾げてお願いしてくる。達也じゃなくたって、これには心を動かされてしまう。
しかし。同時に浮かんでくるのは兄・椿の顔だ。
「ええ? あたしが? そりゃ逆効果だろ……。悪いことは言わない、拾ったところに返してきな」
桔梗は目に涙をためている。
「あっちゃん、ひどいよ! 血も涙もない悪魔だね。味方してやればいいじゃないか!」
「お前な……簡単に言ってくれるけど、あのバカ兄貴が許すわけねえだろ? 達也、ちょっとこっち来な」
菖蒲は玄関を開け、庭の隅にある石をゆびさした。
「あれがさ、全ての原因」
「何あれ、なんかのお墓? あんなのあったっけ?」
地面から半分出ている、岩のようなもの。字が彫ってある訳ではないが、明らかに人工的に作られたモニュメントだ。
「五、六年前くらいからね」
「ええ? だってあっちゃんち、動物なんて飼ったことないじゃないか」
「だから、飼ってもないイヌの墓を、あのバカ兄貴が作ったんだよ」
「なんで? どういうこと!?」
達也はきょとんとし、目を瞬かせた。まあ、驚くのは無理もない。
「知らねえよそんなこと。あたしが聞きたいよ! あの頃お兄ちゃんさ、よく深夜に出歩いててさ……。朝起きてみたらあの墓ができてて、うずくまって泣いてやがんの」
「椿さんが、泣いてた!?」
「どうしたんだって聞いたら、あのバカ兄貴……」
「聞いたら?」
「このいたいけな乙女(当時小学六年生)の腕をねじり上げて」
「ね、ねじり上げ?」
「このことは桔梗には絶対に言うんじゃない、って耳ちぎれるほど引っ張られて」
「ち、ちぎれるほど?」
「やっと解放されて逃げようとした途端、背中に蹴りをくらわしやがって」
「蹴りを、くらわしやがって?」
「その日からチームのトップが代わったというウワサ」
菖蒲の言うことに、いちいちオドロキの合いの手を入れていた達也だったが、突然話が飛躍して、どうやら付いていけなくなったらしい。
「……全然話のつながりが見えないんだけど。第一、ウワサってどういうことさ」
「お兄ちゃん本人からは何も聞いてないんだもん。腹心の手下みたいな人があたしのところに来てさ、『椿さんのこと説得してください』って。イヌひいたくらいで、とか言ってたから。ああ、そういうことかって。まさかお兄ちゃんの手下たち、そのイヌの墓まで丁寧に作って泣いてたなんて、これっぽっちも思っちゃいないだろ」
あの岩の下に眠っているモノ――。
椿のトラウマ以外の何物でもない。
菖蒲と達也は顔を見合わせ、そしてため息をついた。
午後七時――。
長兄・椿が定時に帰宅してきた。
「何だ達也、まだいたのか? 早く帰らないと叔母さんが心配するぞ」
「う、うん。もうすぐ帰るよ」
落ち着きがない。いつもにもまして。
椿の顔色をうかがうようにして、達也は尋ねる。
「ねえ、椿さんさぁ、動物とか好きなほう?」
「なんだ、唐突に……べつに普通だが」
スーツの上着を脱ぎ、ソファに放った。カバンとビジネス雑誌も傍に置く。
「生類憐みの令ってあるじゃない? 徳川綱吉のさ。あれについてどう思う?」
「どうって……言われても。日本史の宿題か?」
ネクタイを緩め、解き始めた。イトコの少年の戯言をいつものことと割り切った扱いだ。
「真剣に答えてよぅ。僕たち家族のシアワセのためにさ」
「お前は俺の扶養家族じゃないぞ……そういえばアヤメとキョウはどこ行ったんだ?」
どきん。
達也の心臓が一段と高鳴った。
「くぅん、くぅん」
「何だ今のは? イヌの鳴き声がした気が……風呂場か?」
どきどきどきん。
達也の心臓は壊れてしまいそうだった。
そして――。
「何やってるんだお前たち、電気も点けずに…………どこのイヌだそれ」
浴槽のふたの上に乗っかり、身を寄せ合っている妹と弟。
そして、つぶらな瞳の子犬が一匹。
「椿兄ちゃん、お願い! 桔梗の一生のお願い! この子、うちで飼いたいんだ」
「駄目だ。……いくら桔梗の頼みでも、イヌは駄目だ」
「……いい加減、過去のこと忘れたらどうなんだよ。そりゃバイクでひいたのがトラウマになっちゃうのは解ってやらないでもないけど」
菖蒲は精一杯、桔梗をかばってやる。桔梗の肩をしっかりと抱き、気合いで負けぬよう、睨みを利かせる。
桔梗を思う気持ちは達也も同じだ。
「そうだよ椿さん! キョウちゃんがこんなに必死に頼んでるのにぃ。死んだイヌだって許してくれるよー」
菖蒲と達也の気合いに押されるようにして、椿はため息をついた。
「お前たちは何か勘違いをしてるらしいな」
今までのやり取りで、こういう状況に陥った経緯が、おおかた飲み込めたらしい。
「第一な、俺がひいたイヌはまだ生きてるぞ。獣医を無理やりたたき起こして、診せにいったからな」
「ええええ!? じゃあ何? あの庭の隅の墓は……?」
全く訳が分からない。兄貴の一連の行動は、すでに理解不能だ。
菖蒲たちの驚く様子に、椿は肩をすくめるような仕草をしてみせた。
「イヌじゃないほうが埋まってる。俺の愛車がな……」
「「はあ?」」
そりゃあ、バイクがなければ暴走族は商売(?)あがったりだ。トップが交代して当然だ。
だから椿は泣いていた――。
「イヌじゃなくて、愛車……ねぇ」
わざわざ穴を掘って埋めることもあるまい……。
それにしても。バイクがやられてしまうなんて。
「……セントバーナードか?」
「じゃあ、なんでイヌ飼っちゃ駄目なの?」
桔梗が涙ながらに訴える。
最後の賭けだ。
「動物はな、人間よりも寿命が短い。先に死ぬんだよ。それに耐えられるか? 今、可愛いというだけじゃ駄目なんだぞ? お前がそれでもそのイヌを飼いたいと言うなら――好きにしたらいいさ」
桔梗は胸の中の子犬をなでて頬擦りし、隣にいた菖蒲に預けた。
そして。
「椿兄ちゃん、大好き」
桔梗は、椿の首に腕を回すようにして抱きついた。椿も微笑んで弟の華奢な身体を抱きしめた。
「椿さん、ずるいよ……」
達也が羨むように言うと、椿は桔梗を抱きしめる腕をさらに強め、満足げな笑みを達也に向けたのだった。
(了)
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