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18 温泉(地獄編)  喜多川家の陰謀
 いつもどおりに振る舞おう!
 菖蒲はそう、心に決めていた。

 何だか不可抗力で、彼氏の桜井と二人で、高級温泉旅館に一泊旅行、することになってしまったのだ。
 スポンサーは、なんと血を分けているはずの兄貴である。
 両親が他界してから、親代わりとなって妹の菖蒲と弟の桔梗を養っている兄、椿。
 ……親代わりなら、彼氏との旅行を奨励するなよ。

 いろいろあって、まだキスさえしてない彼氏と。
 二人きりで、どうやって一夜を過ごせというのだ?

 もちろん、菖蒲だって何も分からぬような子供ではない。

 桜井がどういう風に考えているかは分からないけれど。


 いつもとなんら、変わらなかった。
 二人で豪華な夕食を食べた。
 それぞれ大浴場(ヒノキ風呂)に行って、ゆっくりと温泉につかった。
 浴場の入り口で待ち合わせをし、その後は二人仲良く卓球に興じた。
 普通だ。桜井はいつもと変わらない。


 部屋に戻ると、すでに夕食のお膳は下げられ、座卓は隅に寄せられて、布団が二組並べられて敷かれていた。
 さすがにこれには、なんともはや――。
 しかし桜井は怖いくらいに平然としている。
 売店から買ってきたキャラメルアイスを座卓の上に並べ、一緒に食べようなどと誘ってくる。
 そう、桜井は極度の甘党なのだ。これは付き合うようになってから分かったことだ。
 見た目とのギャップが、ちょっとだけカワイかったりするのだが、本人には言っていない。

 えんえん、テレビを見ながら談笑していた。
 時刻はすでに深夜一時である。
 桜井が、遅いからもう寝るか、と言った。
 寝るのか――。いよいよ、やってきた。
 心臓の鼓動が脳天にまで響いてくる。
 こんな状態で、眠れるわけないだろ!


 電気を消して、五分ほど経っただろうか。
 最初に声を出したのは、桜井のほうだった。
「アヤメ」
「……なんだよ」
「こっちへ来いよ」
「なっ、何でだよ」
「決まってるじゃないか」
 菖蒲の布団の中に、桜井の左手が入ってくる。そして、菖蒲の右手を探り当てると、その大きな手で菖蒲の手のひらを包んだ。

「声、出すなよ……」
 桜井の低い声が、静まり返った部屋に響く。

 すると桜井は、菖蒲の手のひらに文字をつづり始めた。
『とうちょうされてる』
 とうちょうって、まさか『盗聴』!?
 今度は桜井の手のひらを開かせ、菖蒲が文字を書いていく。
『うそ? だれに』
 やり取りは続く。
『おそらく、ばんどうときたがわさん』

「ヤダ、なに考えてるの!?」
 思わず声が出てしまった。
 桜井は素早く手で菖蒲の口をふさいだ。
「俺に任せろ……大丈夫だから」
 どうもおかしいと思ったのだ。あのバカ兄貴が、この彼氏と二人でこんな高級旅館に宿泊させるといった時点で、気付くべきだったのだ。
 盗聴というからには、あいつらもこの旅館内のどこかにいるに違いない。
 菖蒲はがばっと飛び起き、首謀者のところへ殴りこみに行こうとした。
「アヤメ!」
 桜井も掛け布団を派手に吹っ飛ばして起き上がり、菖蒲を連れ戻そうと、手首を強引に引っ張った。
「止めて! 痛い! 放してってば!」
 つかまれた手を振りほどこうとするも、桜井の力にかなうわけがない。
 そのまま、桜井のもう片方の腕で、菖蒲の身体は抱きしめられてしまった。
「イヤだよ、こんな……酷すぎる」
「聞かれてたほうが、ボルテージも上がるってものさ……」
 そう言って桜井はアヤメに素早く足払いをかけ、布団の上に倒したのだ。
 力じゃ、かなわない。
 桜井は、その辺のただの男ではないのだ。
「こんなときに、ふざけるな! 桜井のバカヤロウ!」
 のしかかってくる桜井の顔面に、残る力をすべて込めたパンチを繰り出した。
 しかし寸前で、桜井の手でたやすく押さえ込まれてしまった。
 真上から見下ろしてくる桜井の目が――怖い。
「……なんだよ。俺は紅林と同じ扱いなのか」

 そのひと言で、菖蒲は抵抗する力を失った。

 紅林。紅林。
 桜井の舎弟だった、紅林善造。
 菖蒲に無理やりキスをしてきた、狂った男――。
 もう無我夢中で、紅林の顔面にパンチをお見舞いし、前歯を折ってやったのだ。

 あの時の悪夢が、菖蒲の眼前をよぎっていく。

「もう、いい。お前がそんなにいやなら、俺に無理に付き合う必要はない」
 そう言うと、桜井はゆっくりと菖蒲を押さえつけていた手の力を緩めた。
 どうしたらいいのだろう。
 桜井の気持ちが、少しずつ菖蒲から離れていく――。
 違うのに。そんなんじゃ、ないのに。
 桜井は立ち上がり、菖蒲に背を向けた。そして、盗聴器が仕掛けられた菖蒲のカバンのアクセサリーを引きちぎった。
 見た目はただの皮製のキーホルダーだ。端から僅かに黒いコードがはみ出ている。

「喜多川さん、聞こえてますか? ……済みませんけど、これで終わりです」

 桜井の口から、信じられない言葉が告げられた。

 ――ジ・エンド。


「終わりだなんて、勝手なこと言うんじゃねぇぇ!」
 菖蒲は桜井の背中に飛び蹴りを食らわしたのだ。

 さすがの桜井も不意打ちをくらい、その巨体は部屋の隅まで吹っ飛んだ。
 座卓に身体をぶつけ、出しっぱなしにしていた急須や湯のみ茶碗が派手な音をたてて転がっていく。
 普段の桜井なら、まともにとび蹴りなんて食らうことはないはずだが、冷静を保っているように見えて、実はかなり動揺していたらい。
 ――受身に失敗した。

「アヤメ……ちょっと待て」
 今まで見たこともなかった。
 あの桜井が、天下無敵の桜井が、わき腹を押さえて呻いている。
「さっ、桜井!?」
「天罰だな……我ながら、情けない」

 座卓の角にあばらを強打したことによる、肋骨骨折であった……。





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