「森本、今日仕事が終わったら俺に付き合わないか」
課長の喜多川が、一番近くの席の若者に声を掛けた。
いや、課長という肩書きを持つ喜多川だって、弱冠二十五歳。
森本というその若者と、たいして歳は違わなかった。
「ええ? いや、別にいいですけど、珍しいですねえ。課長が寄り道だなんて」
実際そうなのだ。
この若さで、未成年の妹と弟を養っているのだ。
仕事の鬼で、残業はいくらでもするが、会社の行事でもない限り、遊び歩くことはしないのが、喜多川のポリシーなのだから。
昔は、地元のオチこぼれたちの間にその名をとどろかせたほどのやんちゃぶりだったということだが――今、その面影はない。
「一杯ひっかける訳じゃないぞ。ちょっとな、まあ、買い物とか」
森本青年はますます腑に落ちない。まあ、理由は何であれ、森本は喜多川課長に逆らえる立場ではないのだ。
喜多川が寄ったのは、某大手百貨店だ。
一階。服飾雑貨のフロア。
眼鏡屋の前で立ち止まる。
「好きなの選べ」
「えっ? 僕が掛けるんですか? 別に目ぇ悪くないですけど……」
「度の入っていないサングラスだよ。なるべく黒いやつにしてくれ」
そう森本に言いつつも、喜多川は自分で綺麗に並んでいるサングラスを片っ端から掛け、鏡を覗き込んでいる。
「決めたか? 時間がないから早くしてくれ」
「じゃあ、これでいいです」
森本は一番スタンダードなサングラスを喜多川に差し出した。
サングラス、二個――。喜多川課長、お買い上げ。
ドラッグ・ストアのテナントの前で、再び立ち止まった。
『風邪・花粉対策に』という蛍光色のポップ広告がまぶしいワンコーナーへと進んでいく。
「あっ、喜多川課長、ここにも眼鏡がありますよ?」
スギ花粉用の防護メガネだ。
顔に密着させるデザインのため、特殊な形状でなおかつゴツい。プラスチック素材とはいえ、かなり高価だ。
「眼鏡はもういいんだ。今度はこれだ」
超高性能四層構造フィルター。(ウィルス・花粉を99%カット)
立体ギャザー。(鼻や口の圧迫を抑え、息苦しさやしゃべりにくさを解消)
ノーズワイヤー。(鼻にぴったりフィットして、すき間を防ぎフィルター効果UP)
「これしかないだろう……しかも好都合なことに、二枚入りだ」
「マスク? 誰か風邪でも引いてるんですか?」
超高性能ガーゼマスク、二枚入り――。喜多川課長、ふたたびお買い上げ。
三階。紳士服のフロア。
足まで隠れるレインコートを物色中。
「これなんかお前に似合うんじゃないか、大きさもちょうどよさそうだ」
喜多川はずらりと掛けられたコートを一枚また一枚と取り出して、小柄な森本にあてがっていく。
「ちょっと僕には長すぎますよ? 課長のほうがピッタリじゃないですか?」
「俺はもう用意してきてる。これはお前のために必要なんだ」
お前のために必要――なんて言われても、森本にはサッパリと分からない。
「必要……なんですか? しかも結構、値が張りますよこれ」
なんせ高級紳士服のテナントだ。
レインコート一着、七万八万なんてくだらない。
「いいんだ。コスモスコーポレーション名義で、領収書をきってもらう」
「またそんなこと言ってー。経理課から苦情来ても知りませんんよ?」
高級紳士レインコート、一着。喜多川課長、みたびお買い上げ。
トイレタイム――。
出てきたのは、入った時とはまったく別人の容貌の男が二人。
黒のロングコートに、黒のサングラス、鼻まですっぽり覆われたガーゼマスク。
小柄な森本青年はともかく、長身の喜多川はどこから見てもマトリックスだ。
「次こそ、本命だ。さあ、行くぞ森本」
「――――銀行強盗でも、するつもりですか? 課長……」
森本青年が連れてこられたのは、駅前の小洒落た洋菓子店だった。パリのカフェを彷彿させる、モダンな煉瓦造りの店舗だ。
『ターフェル・ムジーク』、それが洋菓子屋の名前だ。
時間はすでに午後七時半を過ぎている。
薄暗い外からは、店内の煌々とした明かりがまぶしく感じる。
「電話して、取り置きしてもらってるんだ。人気商品だというからな」
喜多川がそこまで説明をして、初めて森本は、なぜ自分がこのような格好をさせられたのか、理解できた。
「そんなにケーキ買うの恥ずかしいんですか?」
マスクの下で、喜多川はもごもごと怒鳴った。
「当たり前だ! だからわざわざ人のいなそうな閉店間際を狙ってるんだろうが」
「で、何で僕までこの格好なんです? ケーキぐらい一人で買えるでしょう?」
「森本、お前には重大な任務がある」
喜多川は、コートの襟元から無理矢理手を突っ込み、スーツの胸ポケットから自分の携帯電話を取り出した。そして、それを森本青年に渡してやる。
「俺がちゃんとお金を払ってものを受け取るところを、カメラで撮れ。そのままあいつに送ってやるんだ」
あいつとは、経理課の八重樫美咲のことだと、森本はすぐに理解した。
どうせまた、彼女のワガママを真に受けて、必死なのだろう……と森本は同情ともとれるため息をついた。
「じゃ、頼んだぞ」
そういい残して、マトリックス喜多川は、サングラス&マスク&ロングコートという特異な出で立ちで、『ターフェル・ムジーク』の店内へと入っていったのだった。
外からショーウィンドーに張り付くようにして、ちびマトリックスの森本は一応、携帯を構えたが――――。
「ていうか、それじゃ誰だかワカりませんって……」
――後日談。
喜多川の出した領収書はもちろん、認められるはずもなかった。
「こんなもん、リジェクト(却下)」
某百貨店の領収書は、紙吹雪となってミサキのデスクに降り積もった……。
(了)
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