喜多川家の三兄妹弟が暮らす、ごくありふれた住宅街の中に、これまたごくありふれた碁会所がある。
町会長の趣味の一環らしい。自宅の敷地の一角にある、たいそう立派な古びた日本家屋を補修し、近所の住民を集めては、囲碁を打ったりや将棋を指したりしているわけである。
平日は主にリタイヤ組の長老やご意見番たちが集まっている。近隣の若者への文句や、鬼嫁の愚痴など、いいストレスの発散の場になっているらしい。
そして土曜日の午後は、小中学生たちに開放されているのだった。
ここの碁会所では、町会長は『先生』と呼ばれている。
町会長が持っている段位を全て足し合わせると、二十七段なんだとか。
囲碁や将棋はもちろん、剣道・柔道・空手・合気道、果ては珠算や書道に至るまで、半端なくパワフルな老人だ。
一人の『少年』が、息を弾ませながら碁会所の中へと入ってきた。
「こんにちは、先生!」
ぺこりと会釈する少年に、先生は目を細め、顔をほころばせた。
「おお、桔梗ちゃんいらっしゃい。今日は遅かったねえ」
「ゴメンなさい……犬の散歩に時間かかっちゃったんです」
「いいんだいいんだ、さあ、お上がりなさい。今ちょうど空いている子がいないから、対局が終わるか、誰かもう一人来るまで、お茶とお菓子をいただいていなさい」
先生が指差した先には、テーブルの上に載った茶饅頭が積み上げられていた。お茶はポットに入っていて、各自自由に休憩が取れるようになっているのだ。
お盆の上に積み重ねられていた湯のみ茶碗をひとつ取り、ポットからほうじ茶を注いでいると、少年の背後から次々と声が掛けられる。
「あ、桔梗くんだ!」
「おっせーぞ! 桔梗!」
「あたし、桔梗くんと次やるー! すぐ終わらせるから!」
みな一様に目が輝いている。この少年は人気者なのだ。
「コラ! 勝負を途中で投げだすやつがあるか! まったく、桔梗ちゃんが来るとみんなすぐこれだ……」
先生が呆れたように子供たちを諌めるも、その効果はほとんどない。
ふふふ、と桔梗ははにかむような笑顔を見せた。
今年中学に上がったばかりのこの少年は、恐ろしく綺麗な顔立ちだった。少女に間違われることもしばしば。
睫の長い大きな栗色の瞳、同じく栗色の髪の毛は肩の少し上まであり、緩やかなクセがかかっている。
そして、透けるような白い肌は思わず手を伸ばして触りたくなるほど。
――もちろん、痴漢にも大人気だ。
老若男女に大人気で、『天使』と崇め奉られている喜多川桔梗少年。
もちろん彼にも、間違いなく「あの」兄や姉たちと同じ血が流れている。
「ナンダナンダぁ? 辛気臭ぇ顔しやがってよぉ。いい歳の子供がちんたらボードゲームかよ、わははは」
突然、大声を上げて碁会所の玄関に飛び込んできたのは、ガラの悪そうな一人の少年だった。
「あ、あの子、花咲小の『悪魔』って呼ばれてる……」
誰かが隣町の小学校の名前を口にした。周辺小学校にまで顔の利く子供らしい。
鋭い眼光。その豪快な立ち居振る舞いは、見ていてふてぶてしいほど。全身黒ずくめの洋服も、子供らしさが欠如している。
騒ぎを聞きつけ、奥の間から先生が出てきた。
「何なんだおまえは? 邪魔するつもりなら今すぐ帰りなさい」
そんな先生の言葉にも耳を貸さず、『花咲小の悪魔』はずかずかと上がりこんだ。そして、入口付近におかれたテーブルのところで黙々と饅頭を食べていた桔梗の前に立ちはだかった。
「お前に用があんだよ。ここに入っていくのを見かけたからよ、付いてきちまったってわけ」
桔梗は口の中の饅頭を、お茶で無理やり流し込んだ。そして、その黒ずくめの少年に気後れもせずに向かい合った。
「僕に用事って、いったい何? 君、小学生なの? へえ、随分と大きいんだねえ。僕よりも大きいじゃない」
食べる? と、桔梗はテーブルの上の饅頭を一つ取り、少年の目の前に差し出した。
「いらねえよ。……お前とは初めて会う気がしねえな」
「奇遇だね。僕も君のこと、初対面にはとても思えないよ」
桔梗はつき返された饅頭にかぶりついた。
「どこかで会ったことねえか? それが知りてえんだよ!」
「ひひや(いいや)、はびべて(初めて)だと思うけど」
口をもごもごさせながら、桔梗は無邪気に答えた。そして付け加えて言う。
「君、時間あるなら相手してよ。ここは碁会所だよ? ケンカ売ろうっていうなら、囲碁か将棋で決着つけるのがスジだよ。どうだい?」
「き、桔梗くん……」
「桔梗ちゃん!」
「おいっ、桔梗!」
先生や仲間たちが、心配そうに見つめている。
『花咲小の悪魔』は、フンっと鼻で笑ってみせた。どうやら、「決着をつける」という言葉に反応したらしい。
「やってやるよ。じゃあその白黒のやつで」
悪魔が指差したのは――碁石の詰まった箱だ。
「囲碁だね、分かったよ。向こうでやろう。みんなは対局を続けてよ」
しかし、仲間たちは落ち着かない。心配そうな顔をしていたが、やがてそれぞれの席へと戻っていった。
残る先生に桔梗は目配せし、僕に任せて、と口を動かした。
『天使』と『悪魔』 対局開始――。
パチン
パチン
――長考。
パチン。
「チェック・メイト。わはははは、お前弱すぎじゃねえの? そんなんでよくチュウガクセイやってられるね」
『花咲小の悪魔』はガハハハと、腹を抱えて下品に笑い出した。――こういうところが、やはり小学生だ。
桔梗は大きな瞳を瞬かせ、そして向かいのデカイ小学生に冷たく言い放つ。
「チェック・メイトって……それを言うなら『王手』でしょ。ちなみにこれは囲碁だから、『王手』でもない」
「細かいこと言うんじゃねえ! 勝ちは勝ちだ!」
「もうひとつ言わせて貰うけど、君のやってるのは……五目並べ、だろう?」
碁盤に一列に並ぶは、黒い四つの碁石――。
「囲碁のルールも知らないで、よく勝負しようなんて言えるよね……」
桔梗は呆れるばかりだった。全く、お話にならない。
「この野郎! てめえが囲碁で勝負しようって言ったんじゃねえか! 我慢ならねえ、表に出ろ」
「嫌だよ。言っとくけど僕、全然怖くないからね? 君の考えてることなんかお見通しさ」
「なんだって……?」
ふふふ、と桔梗は優雅に微笑んでみせた。男子中学生にあるまじき色香を、惜しげもなく放っている。
「だって僕、超能力が使えるんだ。君のこと、何か三つ、当てて見せようか。当たってたらちゃんと『正解』って言ってね」
『花咲小の悪魔』は、途端に不安げな面貌になる。――いったい何を言い出すのだろう、この美少女顔の中学生は。
桔梗は、尚も無邪気に微笑んでみせる。
まず、一つ目――。
「君のお父さんは、ケーキ屋さん?」
「え? せ、『正解』」
続いて、二つ目――。
「君には、なにやら超人的なお兄ちゃんがいる……かな?」
「ううっ、……『正解』」
最後に、三つ目――。
「その超人的なお兄ちゃんは最近、彼女に肋骨を折られたよね?」
「……何でそんなことまで、分かるんだ!?」
悪魔はパニック状態だ。初対面だといっていたはずの桔梗少年に、ことごとく真実を言い当てられたのだから。
「僕は天使だからね、悪魔の君がかなうわけないじゃないか。――しょせん、僕たちは同じ穴の狢なんだよ」
「意味ゼンゼン解んねえよっ!」
「天使は天使でも、僕は堕天使なの」
その時、先生が様子を見に、再び二人のもとへとやってきた。
「仲良くやっとるようじゃないか。やっぱり『天使の桔梗ちゃん』の前では皆、素直になるようだな」
いつの間にやらおとなしくなった少年を見て、先生は安心したようだ。
「先生、この子見込みがありますよ? なかなかスジがいいみたいです」
「そうかそうか。君、名前は?」
「……さくらい、ジョウジ」
少年は消え入りそうな声で言った。最初の意気はどこへやら……。
「では、桜井くん。興味があるなら、たまにここへ遊びに来たらいい。『来る者拒まず』が、ここの方針なのでな」
そういって、先生はまた奥の間に引っ込んだ。
周りに人がいなくなったのを確認して、桔梗は目の前の悪魔「さくらい」に言った。
「そうだ、今度ね僕、君の家に遊びに行くよ。ちゃんとルールを教えてあげるよ」
「勝手に決めんなっ!」
桔梗の目がゆっくりと細められた。先ほどまでの先生に対する態度とは一変して、不遜な笑みを浮かべている。
「そんなこと言っていいの? 僕のお姉ちゃんに頼んで、君のお兄さんに今日のこと喋ったっていいんだよ? 碁会所荒しの小学生がいた、ってね」
――怖い、この少年。綺麗な顔がいっそう冷たさを際立たせている。
「さくらい」は必死に恐怖心と戦いながら、わずかに残る意地を振り絞って食い下がった。
「は? どういうことだよ!? 俺の兄貴とお前とは、関係ねえだろうが!」
「――君がお兄さんに似てるのは、顔だけだね。……頭は悪いんだなぁ。君のお兄さんの肋骨折ったのは、僕のお姉ちゃんだ、って言ってるの」
「? マ、マジで?!」
「僕たち、きっといい兄弟になれると思うよ? 仲良くしておいたほうが、君のためだと思うけど?」
「遊びに来てください――いつでも」
『花咲小の悪魔』は、いともたやすく陥落してしまった。
桔梗の顔に、無邪気な笑顔が戻った。
天真爛漫で純真無垢な、天使の笑顔――。
「もちろん喜んで。君は僕の『弟』分だからね。ああ僕ね、君んちの『メープルチーズケーキ』大好きなんだ」
「おヤスい御用です!」
桜井譲次――。
『堕天使』の造った落とし穴に嵌った『小悪魔』である。
(了)
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