梨緒子は、こんなにも近くで秀平の声を聞いたことは今までなかった。
彼が自分に話し掛けている。
この前のような電話越しではなく、手を伸ばせば触れられるほどのもどかしい距離で。
そして何といっても、突然秀平が見せた柔らかな笑顔に、梨緒子は思わず釘付けになった。
秀平はじっと梨緒子の瞳を見つめたまま、ゆっくりとその透き通った瞳を瞬かせた。
「江波、いま時間、ある?」
「い、い、いま?」
「いや――今日の放課後でもいいんだけど」
梨緒子は秀平の言葉に面食らっていた。どう対応してよいのか分からない。
――どうしよう。声が……出てこない。
既に喉はカラカラだった。必死に唾を飲み込もうとするも上手くいかない。
秀平は、待っている。
梨緒子の反応を無言でうかがっているようだ。
この重苦しい静寂が、永遠に続く気がした。――が。
「おーっす! リオ。めっずらしいよなあ、いつもギリギリのくせして、雪でも降るんじゃねえの?」
絶妙なタイミングで、安藤類少年が昇降口へ姿を現した。
それが、「いい」のか「悪い」のか、恐らく梨緒子と秀平とでは認識が食い違うところだろう。
「大した話じゃないから――別にいい。それじゃ」
「え、あ、うん」
秀平は類を避けるようにして、そのままどこかへ立ち去ってしまった。
「また永瀬かよ……何? 何話してたんだよ?」
「え? あ……よく分かんない」
類はしつこく問いただしてくる。梨緒子はいつものことと割り切って、さらりとかわしてみせた。
本当に、よく分からなかったのだ。もう少し冷静になれば理解できるのかもしれないが――秀平の空気がまだ残っている、今、ここでは、到底無理な話だ。
類と目が合う。
そして、わずかな沈黙。
「……別に話したくないならいいけどさ」
類が思いがけずつまらなそうな顔をしたので、梨緒子は慌ててフォローをした。
「そ、そんなんじゃないって。お兄さんが私の家庭教師だって、ようやく気付いたみたい。それを言われただけ」
「それだけ? ホントかあ?」
梨緒子が必死になるのを見て、類は何がツボをついたのか――笑いながら、冷やかすように梨緒子の額を軽く突いた。
「まあ、いいけどさ。あいつ、イマイチ何考えてるか解んないからよ、ちょっと気になっただけ。気い悪くしたんなら、ゴメンな?」
「そんな、謝らないでよ、ルイくん。私も初めて話しかけられて、……ちょっとビックリしちゃった」
梨緒子がそう説明すると、類少年はそうか、と頷いただけで、それ以上何も聞いてこなかった。
一日中動揺が収まらず、もはや授業を受けるどころではなくなっていた。
もちろんそれは、今朝の昇降口での秀平の言葉が、梨緒子の頭からずっと離れないためである。
『江波、いま時間、ある?』
――いったいアレはなんだったんだろう……? あの秀平くんが私に話したいことがあったってことで。
『――今日の放課後でもいいんだけど』
――もしかしてものすごいチャンスだったんじゃないの? 私ったら気の利いた返事も出来ずに、絶好の機会をみすみす逃すなんて。
延々と思考は堂堂巡り。
もしかしたら、全然大した話じゃないのかもしれない。
新しい接点である兄・優作のこと――なのかもしれない。
実は梨緒子に好意を持っていて、告白しようと思っている……だなんて都合のいい考えは――無いと言えば嘘になるのだが。
しかし、世の中そうは上手くいかない。それは梨緒子にも分かっている。
でも。あの孤高の王子様が、わざわざ話し掛けてきた。
何も期待するな、というのも酷な話である。
梨緒子は昼休み、親友の美月に今朝会った出来事の顛末を詳しく話した。
類少年が仲良し男子グループと学食へ行ったのを見計らって、である。
どうも類が絡むと話がややこしくなってしまう――梨緒子はそう感じていた。
そしてそれは恐らく、正解。
「で、梨緒ちゃんは何て答えたの?」
「答える前にね、ルイくんが来ちゃって……そしたら秀平くんが別にいい、それじゃ――って」
「ホント馬鹿なんだから、あいつ。梨緒ちゃんの気持ち分かってるんだったら、ちょっとは気を利かせて通り過ぎていけばいいだけの話じゃない? …………絶対ワザとだ」
美月は呆れたように言った。幼馴染は伊達ではない。類の気性と行動を的確に見抜いている。
「もうこんなチャンス、来ないかもしれないよ?」
美月の言葉が、梨緒子の心にまっすぐ突き刺さる。
「あの永瀬秀平が、梨緒ちゃんが来るのを待ってて、それで自分から話し掛けてきたんでしょ。余程のことだよ」
梨緒子が来るのを、待ってて――。
わざわざ、自分から話し掛けて――。
「今度は梨緒ちゃんが勇気を出す番。ゼロからの一歩はなかなか踏み出せないけど、今回はもう向こうが一歩踏み出して来てくれたんだもの。永瀬くんの話、聞いてあげたらいいよ」
美月の優しい言葉が、梨緒子のなけなしの勇気に力をくれる。
「類のことは任せて。邪魔させないよう、しっかり捕まえて先に帰るから」
さすがは親友、心得ている――目の前でウィンクする美月に、梨緒子は力強く頷いて見せた。
秀平はいつまで経っても昇降口に姿を見せなかった。辺りを見回し靴箱を覗くと、外履きが入ったまま。
つまり、まだ校内のどこかにいる――ということだ。
秀平の行動範囲には謎が多かった。
休み時間には一人、ふらりとどこかへ消え、どこにいるのか梨緒子には分からなかった。
捜しに行こうか――でも、その間にすれ違いになって昇降口へ来てしまったら、どうしようか。
明日になればもっと話し掛けにくくなる
梨緒子は自分がとるべき行動に迷っていた。
そのときである。
目的の人物が姿を現した。カバンを持っているのでおそらく帰ろうとしているのだろう。
「あ、あの……秀平くん!」
梨緒子はありったけの勇気を振り絞って、近づいてくる秀平に声を掛けた。
「今朝の話なんだけど……いい?」
「もう、いいんだ別に」
秀平はそのまま立ち止まることもなく、梨緒子の前を素通りしようとした。
素っ気なさ過ぎる。
フレンドリーな応対を期待していたわけではなかったが――あまりの反応の薄さに、梨緒子は途惑った。
何とか秀平の後を追い、背中越しに話しかける。
もう、必死だ。
「あ、でも、このままじゃ、気になって夜眠れなくなっちゃうから、秀平くんの中ではもう解決したことかもしれないけど、とりあえず何の話だったかを教えてくれたら嬉しいかなー……なんて」
秀平が下駄箱の前に到着。靴を履き替えるためにようやく立ち止まった。
梨緒子は秀平の横顔を見上げながら、じっと待った。
すると――秀平はため息を吐きつつ、ぽつりとひと言。
「教えたら…………もっと眠れなくなるかも」
「ええ? って、もしかして怖い話とか、そんなの?」
秀平は内履きを脱ぎ、下駄箱からスニーカーを取り出すと、無言のまま微笑んだ。
怖くはないと思うけど、と言いながらスニーカーに履き替え、内履きを自分の下駄箱にきちんと揃えて入れ、ゆっくりとフタを閉じた。
そして、そこでようやく秀平が梨緒子の方へと振り返った。
梨緒子の心拍数は、さらにさらに跳ね上がり、その音が脳天まで響いてくる。
続く秀平の言葉は、実に意外なものだった。
「じゃあさ、確かめさせて――欲しいんだけど。君と安藤のこと」
――あ、安藤……?
秀平の言う『安藤』が類少年のことであることに、梨緒子はすぐに気付かなかった。
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